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岡田耕始

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(2013年3月)

岡田 耕始(おかだ こうじ、1964年 2月22日 - )は、日本のゲームクリエイターで株式会社ガイア代表取締役社長。東京都 浅草生まれ。青山製図学院(現:青山製図専門学校)卒業[1] 。代表作はかつて在籍したアトラスでディレクターを務めた『女神転生シリーズ』。ゲームのスタッフクレジットでの英語表記は「Cozy Okada」。

経歴

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1964年2月、東京都台東区の浅草にて生まれる[1] 。 小学生時代はO・J・シンプソンの影響でアメリカンフットボールごっこをしていた一方、小遣いを戦車のプラモなどに費やすような子どもだった[1] 。 岡田は2022年のインタビューの中で、ドイツのタイガー戦車からデザインやメカニック、ひいては自動車に興味を持ち、作文で「レーサーになりたい」旨を書いたと振り返っている[1]

中学生に上がったころ、スナックを経営していた叔母や裕福な同級生を通じて『ブロック崩し』にも触れていた[1] 。 その後バンド活動をする傍ら、ゲームセンターへの出入りも増え、機械への興味もあった[1] 。 ある日、なじみのゲームセンターから「ブームが去ってもう稼げない」という理由で『スペースインベーダー』の基板と筐体一式を2万円で譲られる[1] 。以来、ゲームセンタではなくバンドの練習場所の片隅に筐体を置いて遊ぶようになった[1]

その後、自動車への興味から、日本大学豊山高等学校に入学するも、エンジンの設計には優秀な頭脳が必要であることを知り、同校を卒業した後は高校卒業後は青山製図学院に進学した[1] 。 この時点ではバンド活動はしていなかったものの、パチンコ店やゲームセンターへの出入りは続き、作品の中にはのちの彼の就職先であるユニバーサルテクノスのものも含まれていた[1]

ゲーム業界入り

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1983年4月に業務用マシンの設計者としてユニバーサルテクノス株式会社に入社した[1] 。ところが、入社から半年後に所属部署が東京都人形町から栃木県小山市に移転したことで通勤しにくくなり、同僚である横山秀幸の誘いを受け、1984年にテクモに転職した[1]

そこで岡田は設計アシスタントの仕事を務め、『Gridiron Fight』(1985年)や『All American Football』(1985年)といったアーケードゲームの筐体デザインを担当した。このほかにも、『ピンボールアクション』の専用コントロールパネルの制作などにもかかわった[1]

やがて、CADを導入することになり、岡田もあらためてプログラミングを勉強することとなった[1] 。また、ちょうどテクモでは新作アメフトゲームの開発が行われることになり、岡田は終業後にソフトウェア部門に出入りしながらCADの知識を積み、時には石塚路志人[注釈 1] の指南を受けていた[1] 。最終的にCADの導入は見送られたものの、ソフトウェア部門への出入りは続いた[1] 。 また、並行輸入で手に入れた『ウィザードリィ』をはじめとするコンピュータRPGに影響を受け、社内で提案するが、当時このジャンルは一般的ではなく、テクモの上層部の「今はやっているものを作りたい」という意識を変えるのに苦労していた[1] 。 そんな中、テクモの店舗部門の原野直也と出会い親しくなる[1] 。そして、1986年4月にテクモ時代の同僚6名と共にアトラスを設立[1] 。ゲームを作りたい一心でアセンブラを学び、当初はプログラマーとして女神転生シリーズの制作に関わる。

1992年にプログラマーに限界を感じ『真・女神転生』のディレクター、後にプロデューサーに。17年に渡り『女神転生』シリーズを初めとした多数のゲームに関わる。

2003年に従来のシリーズにとらわれない新しいゲームを作りたいと、アトラスを退社して株式会社ガイアを設立。

人物

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アトラス創業者の原野直也とは、原野がテクモの店舗部門の代表だった頃からの仲であり、プライベートでも親しい関係にあった[1] 。 これに関係して、テクモの店舗部門の野球チームに参加した際、左目にボールが当たってしまった際に瞳孔が開いてしまい、一時は左目の視界が真っ白になったと岡田は2022年のインタビューの中で話している[1] 。 その際、病院で瞳孔を収縮させる薬を注射されたことで視界は戻ったものの、現在(2022年時点)でも左目の瞳孔が少し開いていて裸眼ではまぶしいため、サングラスを着用している[1]

作品

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テーカン

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  • Gridiron Fight(AC/1985) - 筐体デザイン
  • All American Football(AC/1985) - 筐体デザイン
  • TEHKAN World Cup(AC/1985) - 筐体デザイン
  • ピンボールアクション(AC/1985) - 筐体デザイン

アトラス

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ガイア

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脚注

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注釈

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  1. ^ のちのウエストン創業者[1]

出典

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外部リンク

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