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山崎興盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山崎興盛
山崎興盛の自刃の地に建立された墓碑
(山口県周南市須々万)
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 弘治3年3月3日(1557年 4月2日)
別名 山崎興守、山崎貞総
戒名 貞山道正大居士
墓所 山口県 周南市 須々万
官位 伊豆守または出雲守
主君 陶晴賢
氏族 山崎氏
隆次 鶴千代丸和泉丸
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山崎 興盛(やまさき おきもり)は、戦国時代武将大内氏、後に陶晴賢の家臣。熊毛山城主。

生涯

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生年不詳だが、名前の「興」の字は大内義興に由来する[1] ものであることから、この頃から存命しているものと推測される。但し、この頃には特に活動はみられない。

大永2年(1522年)10月、須々万八幡宮(飛龍八幡宮)に太刀を奉納し、天文16年(1547年)の『須々万八幡宮文書』に代官として名を連ねている。

弘治2年(1556年)から始まる毛利元就防長経略を防ぐために、嫡男・隆次江良賢宣 [2] 勝屋興久 [3] 宮川伊豆守、郷村の一揆らと共に須々万沼城に篭城。同年4月20日からは熊谷信直9月22日からは毛利隆元率いる毛利軍の攻撃を度々退けたが、翌弘治3年(1557年)2月19日からは毛利元就自ら軍勢を率いて攻撃を始め、沼に蓆を浮かべ、火縄銃を初めて戦闘で使用して総攻撃を行った。須々万沼城の城兵はよく防戦したが、江良賢宣・宮川伊豆守らの降伏や城兵の士気低下、逃亡により3月2日に須々万沼城は開城した。なお、長期戦の最中、興盛の妻が篭城中の夫を慕い、城の周囲の沼を渡り訪ねたという逸話がある。

元就は山崎興盛父子の善戦を賞賛し助命しようとしたが、興盛は元就に検使を乞い、断乎として志を曲げなかったので、元就は仕方なく検使として井上就重児玉就方を遣わし、興盛は隆次と共に須々万沼城麓の本条という場所において3月3日に自害した。元就は興盛父子の首実検をした後、陶氏菩提寺である都濃郡 長穂龍文寺に丁重に葬り、法要を営んだ。墓碑は山口県 周南市須々万の山口県立徳山高等学校徳山北分校裏の畑にある。

次男の鶴千代丸は14歳だったため龍文寺で切腹したが、三男で11歳の和泉丸は落ち延び、富田山奥に出て農民の藤井某のもとに隠れ住んだ。その後、富田建咲院が先祖の建立した寺であると知り、尋ねて後に三世の宗喜和尚に養育された。21歳の時、富田政所の田中家に世話をされて後、大庄屋となった。子孫の和泉屋儀兵衛の時、天明5年(1785年)に富田新開作(旧新南陽市の和泉屋開作)の築立に成功する。

脚注

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  1. ^ 興盛自身はあくまで陶氏の家臣という立場にあるため、義興から直接偏諱を受けたかどうかは定かではなく、義興の1字を受けた陶興房(晴賢の父)から授与された可能性がある。長男の隆次についても、「隆」の字は義興の子・大内義隆由来であるが、同様に陶隆房(のち晴賢)から受けた可能性がある。
  2. ^ 江良房栄の兄。
  3. ^ 相良武任の実弟。

参考文献

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