山岡道武
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山岡 道武(やまおか みちたけ、1897年(明治30年)10月1日[1] [2] - 1959年(昭和34年)12月25日[1] [2] )は、日本の陸軍 軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集 ]三重県出身[1] [2] [3] 。陸軍中佐・山岡金蔵の長男として生まれる[1] 。陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業[1] [2] [3] 。同年12月、歩兵 少尉に任官し歩兵第15連隊付となる[1] [3] 。1919年(大正8年)3月、第14師団 司令部付に発令されシベリア出兵に出征した[1] 。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を優等で卒業した[1] [2] [3] 。
1927年(昭和2年)3月、歩兵大尉に昇進し歩兵第15連隊中隊長に就任[1] 。1928年(昭和3年)3月、参謀本部付勤務(ロシア班)となり、以後、参謀本部員、ソビエト連邦大使館付武官補佐官、陸軍歩兵学校教官、参謀本部員、関東軍 参謀などを務め、1939年(昭和14年)3月、歩兵大佐に昇進し、同年4月、参謀本部ロシア課長に就任した[1] [3] 。
1940年(昭和15年)3月、ソビエト連邦大使館付武官に転じ、歩兵学校研究部主事を経て、1943年(昭和18年)3月、陸軍少将に進み同校付となる[1] [2] [3] 。1944年(昭和19年)7月、東部軍司令部附[4] 、独立混成第65旅団長を経て、同年12月、第1軍 参謀長に転じ日中戦争に出征[1] [2] [3] 。太原で終戦を迎えた[2] 。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[5] 。同年6月に復員した[1] 。
著作
[編集 ]- 『マレンコフの政権』大蔵出版、1953年。
- 『ソ連次はどう出る? クレムリンの慧星』大蔵出版、1954年。
親族
[編集 ]- 弟 近藤毅夫(陸軍大佐)・山岡有武(陸軍中佐)[1]