コンテンツにスキップ
Wikipedia

小笠原長貴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 小笠原長堯」、「小笠原長隆」、あるいは「小笠原長高」とは別人です。
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"小笠原長貴" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2017年3月)
 
小笠原 長貴
時代 江戸時代後期
生誕 寛政5年7月6日(1793年 8月12日)
死没 天保11年3月8日(1840年 4月10日)
改名 土用犬丸(幼名)、長貴
戒名 瑞竜院殿春沢宗仁大居士
墓所 福井県 勝山市の開善寺
東京都 台東区松が谷の海禅寺
官位 従五位下、相模
幕府 江戸幕府 奏者番若年寄
越前 勝山藩
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長教、母:中川久貞の娘
正室:酒井忠道の娘
貴富、長保、長満川勝広運長守
娘(森長国正室)、娘(屋代忠規正室)
テンプレートを表示

小笠原 長貴(おがさわら ながたか)は、越前 勝山藩の第7代藩主。信嶺系小笠原家9代。

経歴

[編集 ]

寛政5年(1793年)7月6日、第6代藩主・小笠原長教の長男として生まれる。寛政11年(1799年)に父が死去したため家督を継いだ。しかし家督相続の年に勝山城下で大火が起こり、享和3年(1803年)には江戸藩邸が火事で焼失する。文化8年(1811年)には天候不順が原因で凶作となり、領内で打ちこわし(大杉沢騒動)が起こった。文化11年(1814年)には百姓一揆が起こり、天保期には天保の大飢饉で大被害を受け、それが原因で天保7年(1836年)に打ちこわしが起こっているなど、藩政は多難続きであり、藩財政は悪化した。

文化13年(1816年)7月から12月まで奏者番を務め、文政12年(1829年)から天保11年(1840年)まで若年寄を務めるなど、要職を歴任している。天保11年(1840年)3月8日に死去した。享年48。跡を六男の長守が継いだ。

系譜

[編集 ]

父母

正室

子女


開善寺の墓(左)。右は貞信の墓。
平安末〜鎌倉時代
南北朝〜安土桃山時代
江戸時代
明治時代以降

分家・支流

松尾小笠原家
小笠原氏越前勝山藩7代藩主 (1799年 - 1840年)
結城松平家
明石松平家
小笠原家

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /