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小熊秀雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小熊秀雄
小熊秀雄(旭川新聞社時代)
ペンネーム 旭太郎(漫画原作者)、小熊愁吉、黒珊瑚
誕生 1901年 9月9日
大日本帝国の旗 大日本帝国北海道 小樽市
死没 (1940年11月20日) 1940年 11月20日(39歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国東京都 東京市 豊島区
墓地 多磨霊園
職業 詩人小説家漫画原作者画家
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
最終学歴 泊居高等小学校
影響を与えたもの
原作を担当した漫画『火星探険』(大城のぼる作画)は、日本のSF漫画の先駆的傑作とされる
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常磐公園(旭川市)に建立された詩碑

小熊 秀雄(おぐま ひでお、1901年 9月9日 - 1940年 11月20日)は、日本の詩人小説家漫画原作者画家である。筆名に、小熊 愁吉(おぐま しゅうきち)、黒珊瑚(くろさんご)、旭 太郎(あさひ たろう)などがある。

生涯

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1901年(明治34年)9月9日北海道 小樽市 稲穂町に生まれる。幼少期を稚内市秋田樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業。養鶏場の番人など様々な雑務作業に従事した後、1922年より旭川新聞社で新聞記者となる。この頃から詩作を始め、1923年、旭川新聞に最初の詩作『奪われた魂』などが掲載される。この頃よりペンネームを小熊愁吉(おぐま しゅうきち)や黒珊瑚(くろ さんご)の筆名を使用し、作品や取材記事を書いた。1924年、画家の高橋北修と共に上京し、詩を売り歩くが、一編も売れず挫折し帰った。

1925年2月、神居小学校の音楽教師をしていた崎本つね子(1982年没)と結婚。同年、再び上京し、松竹キネマへの入社を図るも不採用となり、再び旭川に戻った。1926年、旭川新聞社に復職し、旭川歌話会の設立に参加。短歌を作り始める。1927年、今野大力、鈴木政輝らと詩誌『円筒帽』同人となり、小熊醜吉(おぐま しゅうきち)の名で精力的に詩作を発表。この頃より旭川新聞に挿絵を入れたエッセイを連載したり、油彩を描いた。

1928年、父が亡くなったこともあり、旭川新聞社を退職し、家族とともに三度目の上京。雑誌社や業界紙の編集として働きながら、民謡調の詩を雑誌『民謡音楽』に発表。1930年、生活は苦しく家賃の滞納、長男(小熊焔〈1926-1945年8月25日 夭折〉)の入院治療費の未納、都会の飢餓に苦しみ、自身も喘息発作に苦しむ。1935年に『小熊秀雄詩集』長編叙事詩集『飛ぶ橇』で詩人としての地位を確立、自由や理想を奔放に歌い上げる作風で、詩壇に新風を吹き込んだ。詩作にとどまらず、童話評論絵画など幅広い分野で活躍した。

小熊の最初の詩集『小熊秀雄詩集』の装幀をおこなった寺田政明池袋モンパルナスの画家たちと交流し、みずからも絵筆を執った。なお「池袋モンパルナスに夜が来た」という文で始まる詩を発表。「池袋モンパルナス」の名づけ親も小熊といわれている。

また晩年は、漫画出版社・中村書店の編集顧問となる。旭太郎名義で原作を担当した漫画『火星探険』(1940年)はSF漫画の先駆的傑作とされ[1] [2] 手塚治虫小松左京筒井康隆松本零士らに大きな影響を与えた[1] [2]

1940年(昭和15年)11月20日東京市 豊島区千早町30番地(現在の東京都豊島区千早)東荘で、肺結核により死去した。満39歳没。戒名は徹禅秀学信士[3]

作品

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  • 小熊秀雄詩集
  • 飛ぶ橇
  • 長長秋夜
  • 流民詩集

童話

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  • 或る手品師の話
  • 焼かれた魚

漫画原作(旭太郎名義)

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評論

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ギャラリー

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関連項目

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脚注

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  1. ^ a b 長谷邦夫『ニッポン漫画家名鑑―漫画家500人のデータブック』データハウス、1994年、75頁 - 76頁
  2. ^ a b 長谷邦夫『ニッポン名作漫画名鑑』データハウス、1995年、341頁 - 342頁
  3. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)70頁

外部リンク

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