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小泉信吉

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小泉信吉

  1. 小泉信吉(こいずみ のぶきち、1849年 2月25日(嘉永2年2月3日) - 1894年(明治27年)12月8日) 慶應義塾長横浜正金銀行支配人。小泉信三の父。
  2. 小泉信吉(こいずみ しんきち、1918年(大正7年)1月17日 - 1942年(昭和17年)10月22日) 小泉信三の長男。1.の孫。海軍主計大尉。第二次世界大戦中南太平洋方面で戦死。墓所は多磨霊園

以下、1.について詳述。


こいずみ のぶきち

小泉 信吉
生誕 1849年 2月25日
日本の旗 紀伊国 名草郡宮村
(現・和歌山県 和歌山市)
死没 (1894年12月08日) 1894年 12月8日(45歳没)
出身校 慶應義塾
職業 慶應義塾長
横浜正金銀行支配人
配偶者 小泉千賀
子供 小泉信三
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小泉 信吉(こいずみ のぶきち、1849年 2月25日(嘉永2年2月3日) - 1894年(明治27年)12月8日)は、慶應義塾長、横浜正金銀行支配人。小泉信三の父。

人物

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紀伊国 紀州 藩士 紀州徳川家侍医で250石を食む小泉文庫の子として紀伊国名草郡宮村(現在の和歌山市)に生まれる。母は板谷氏。

武よりも文にすぐれ、江戸に出て1866年(慶応2年)に当時、鉄砲洲にあった福澤諭吉が開いて間もない蘭学塾(のちの慶應義塾)に入り、洋学を学んだ[1] 。紀州藩から慶應義塾への藩費留学生は当時多く居たが、特に小泉は紀州でも神童と言われ、戊辰戦争が始まると多くの藩士が帰郷する中、福澤諭吉が紀州藩の執政に頼んで、江戸に留まることができた。

長じて大阪舎密学校大学南校開成学校 教授に就任。1874年(明治7年)、紀州徳川家の援助を受けて、英国 ロンドンに留学した[1] 1878年(明治11年)に帰朝し井上馨に抜擢されて、大蔵省奏任御用掛となった[1] 。英国における生命保険事業について研究。1880年(明治13年)横浜正金銀行が設立されると、副頭取となり経営に携わる[1] 。ロンドン支店設立のために渡英した後[1] 1880年(明治15年)に大蔵省に戻り[1] 奏任御用掛、主税官を歴任する。また、1890年(明治23年)日本銀行 取締役に就任。日銀第二代総裁の富田鉄之助が、横浜正金銀行経営の問題で時の大蔵大臣 松方正義と意見があわずに辞職したとき、松方は大蔵省から藤井佳久長崎剛一郎、帝国海軍から片岡直輝外務省から河上謹一鶴原定吉、民間からは小泉信吉、高橋是清山本達雄を日銀に入れた。1892年(明治25年)には横浜正金銀行本店支配人に就任した。

この間、交詢社の設立発起人となり、1887年(明治20年)に慶應義塾評議員の第一会選挙で当選し、慶應義塾長となる[1] 。しかし、採点法の改正から普通科生徒の同盟休校が起こり[1] 、福澤との大学運営を巡る齟齬も生じたため[1] 、わずか2年で辞任した[1] 。当時の教え子に柳荘太郎(三井銀行重役・第一火災海上保険会社社長)などがいた。辞任後の1891年(明治24年)に横浜正金銀行の本店支店長に就任[1]

1894年(明治27年)、腹膜炎により46歳で死去した[1] 。墓所は多磨霊園

福澤諭吉からの信頼は厚く、福澤は小泉に伊藤博文井上馨から要請された政府新聞『公布日誌』発行を引き受けたことを極秘裏に打ち明けていた。また、福澤は小泉を『我慶應義塾の就学生、前後一万に近きその中に、能く本塾の精神を代表して一般の模範たるべき人物は、君を措て他に甚だ多からず』と評した[1] 。他、紀州ゆかりの徳川頼倫山口熊野鳥山啓和田義郎鎌田栄吉吉川泰次郎滝本誠一松山棟庵山東直砥三宅米吉下村房次郎森下岩楠関直彦と共に、和歌山学生会を結成して在京特別会員となった。

家族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m "小泉信吉|福澤諭吉をめぐる人々|三田評論ONLINE". 三田評論. 2022年6月22日閲覧。

関連項目

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参考文献

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成文化前
成文化後
財団法人下
(注記)1920-兼大学総長
学校法人下
(注記)理事長兼大学長

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