小堀宗舟
小堀 宗舟(こぼり そうしゅう、1840年 - 1901年 8月31日)は、幕末の旗本で、茶道家。
小堀遠州流第12世家元。本名は小堀 政休[1] 。初め直次郎、のちに左近、大学と称した[1] 。
生涯
[編集 ]小堀遠州直系の旗本寄合の政純の次男[1] 。兄である小堀遠州流第11世家元の政恒が病死したことにより、その末期養子となって1845年(弘化3年)に禄高三千石の家督を継承し、徳川家慶、家定、家茂、慶喜の4代に仕えた[1] 。1858年(安政5年)に徳川家茂に拝謁し、黒船来航時には登城して国書の翻訳を受け取ったり、1864年(文久3年)には老中阿部正外に従って軍船順動丸で上洛するなど、小堀家の惣領として活躍した。領地は大和国、備中国、近江国にあった[1] 。
明治維新を迎えた後、1873年(明治6年)からは徳川家の依頼を受け、上野東照宮の堂守を勤めた他、下谷 練塀町に屋敷を構え、これまで小堀家の代々当主と近臣のみに伝わってきた遠州流の茶道を、家元として一般に教授した[1] 。
1893年(明治26年)、小堀遠州流普及のため、関西へ赴き[1] 、伏見や大阪などで教授した[2] 。この時、松殿山荘流の高谷宗範や円位流の小文法師などを弟子として抱えた他、安田善次郎や古田重名、大阪の道具商と交流をもち、また、遠州流茶道保存会を設立し、茶道が衰退した明治時代において武家茶道の継承に尽力し、小堀遠州流中興の祖と呼ばれた[要出典 ]。
1895年(明治28年)に大徳寺 孤篷庵において、遠州二百五十年祭を催した[1] 。また、1897年(明治30年)以降に山口県の萩においても茶道を教授したが[3] 、1901年(明治34年)に紫野大徳寺中孤篷庵において没した[1] 。
脚注
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