寿性院
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寿性院(じゅしょういん、正字体:壽性院、? - 寛文元年3月6日(1661年 4月5日))は、土佐藩主・山内忠義の側室。佐与姫の生母。高知城三の丸に居住したことから生前は三の丸様 と称された[1] 。また一般庶民から土佐藩主の側室となったため、俗に「土佐のシンデレラ 」とも呼ばれる[2] [3] 。高知市三ノ丸の地名の由来となった女性[4] 。
来歴
[編集 ]父は土佐国 安芸郡安芸出身の庶民[5] で、山内忠義に見初められ側室となった[1] 。高知城三の丸に居住し忠義の次女・佐与姫を産む[3] 。寛文元年3月6日(1661年 4月5日)高知城にて死去[3] 。法名は壽性院殿月清玉心大姉[3] 。
墓所
[編集 ]庶民の出身であることから、山内家歴代墓所のある筆山ではなく、遠慮して筆山の見える鏡川の対岸の山に埋葬された[1] 。のちこれに因んで、この山が「三ノ丸」と呼ばれている。現在の住所表記は、高知県 高知市三ノ丸。寿性院の墓の近くには、坂本龍馬の先祖の才谷屋の歴代墓所がある[1] 。
娘
[編集 ]一人娘の佐与姫は、土佐藩家老・山内将監(乾信勝)に嫁いだ[6] 。将監の屋敷は、高知城の南側でのちに深尾家の屋敷となった現在の「ひろめ市場」の場所である[7] 。佐与姫の墓は、高知県 南国市の永源寺にあり、巨大な墓石であることから南国市の史蹟に指定されている[8] [3] 。
子孫
[編集 ](出典)『土佐藩御侍中先祖書系図牒』、『土佐の墓』、『板垣精神』
影響
[編集 ]土佐にはシンデレラ物語の類型として「まま子のお藤」や「仁淀の川風」といった民話が伝わるが、その中で実在が確定している女性は寿性院のみである[9] 。子孫には板垣退助なども含まれるため、今も勝運、出世や良縁を祈願し香華をたむける人の姿が見られる[9] 。
補註
[編集 ]- ^ a b c d "『寿性院 山内忠義の側室』". 南国土佐へ来てみいや. (2010年4月24日). http://nangokutosa.blog47.fc2.com/blog-entry-862.html 2019年11月15日閲覧。
- ^ 『土佐の高知のシンデレラ』高知県立文学館・おはなしキャラバン
- ^ a b c d e "『板垣精神 : 明治維新百五十年・板垣退助先生薨去百回忌記念』". 一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 (2019年2月11日). 2019年8月30日閲覧。
- ^ 『土佐地名往来』より
- ^ 一部のインターネットサイトでは、寿性院の父の名を「園池宗朝」と記すものがあるが、これは、山内忠義の後妻(正室)である青岸院との混同で間違い。青岸院の兄・園池宗朝(1611年 - 1661年)は、江戸前期の公卿で、園池家の祖。櫛笥隆致の次男。権中納言・参議・治部卿、従二位であり庶民ではない。東山天皇の妻の祖父が園池宗朝にあたり、現皇室もこの子孫にあたる。
- ^ 『土佐藩家老物語』松岡司、高知新聞社、2001年
- ^ 『土佐藩ゆかりの会会報』(平成30年号)、2018年
- ^ 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号)
- ^ a b 『土佐藩ゆかりの会』会報誌より。
参考文献
[編集 ]- 『南路志』武藤到和・武藤平道 共編、1815年(文化12年)
- 『御侍中先祖書系圖牒』高知県立図書館寄託文書
- 『卵塔物語』乾常美編(所収『南国史談』第22号)
- 『土佐藩家老物語』松岡司、高知新聞社、2001年
- 『土佐藩ゆかりの会会報』(平成30年号)、2018年
- 『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会、2019年