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宗義功 (富寿)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宗義功
宗義功像(養玉院蔵)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永2年2月29日(1773年 3月21日)
死没 文化10年5月17日(1813年 6月15日)
改名 富寿、猪三郎、義功
戒名 浄元院
墓所 長崎県 対馬市厳原町国分の万松院
官位 従四位下侍従対馬守式部大輔
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
対馬 府中藩
氏族 宗氏
父母 宗義暢永留藤右衛門娘織江
兄弟 猪三郎(義功)富寿(義功)、種寿ら
大炊御門家孝の娘彰順院
シケ(大山氏)、熊(熊生氏)、村上氏
義質 暢孫質直津江左善大浦伯耆
特記
事項
兄の猪三郎の死後に身代わりで藩主となり、公式には同一人物とされた。猪三郎の幼名は兄に代わって名乗ったもの。
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宗 義功(そう よしかつ)は、対馬国 府中藩12代藩主。ただし、第11代藩主で同母兄の猪三郎(義功)と同じ人物として藩主に擁立されたため、第11代藩主と見なされることもある。

生涯

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安永2年(1773年)2月29日、第10代藩主・宗義暢の六男として生まれる。ただし江戸幕府の記録では兄と生年を合わせるために明和6年(1769年)生まれと報告している。天明5年(1785年)に兄で第11代藩主だった猪三郎が死去したが、猪三郎は第10代将軍・徳川家治御目見していなかった。改易を恐れた家臣団は幕閣の示唆もあって、猪三郎の弟である富寿と種寿のうち、死去したのは種寿であるとして、富寿を義功に、種寿を富寿にそれぞれすり替え、そして富寿が家督を継いで藩主となった。ただし幕府の記録では、兄に合わせるため安永7年(1778年)相続ということにされている。

天明7年(1787年)から親政を開始し、倹約の徹底や講武所・講学所の設置などに務めたが、もともと病弱で若年のため、家臣団は主導権や交易をめぐっての派閥争いを繰り返し、藩も財政難になるなどの混乱が続いた。寛政2年(1790年)11月、従四位下・侍従・対馬守・式部大輔に叙任される。

文化9年(1812年)10月2日、家督を次男の義質に家督を譲って隠居する。文化10年(1813年)5月17日に死去した。享年41。

系譜

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偏諱を与えた人物

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  • (かつしげ、次男で次代藩主。のち義質に改名)
  • 杉村功加(宗氏家臣で、次代・義質亡き後、その遺言を偽造して政争を巻き起こす原因を作ったとされる)

関連項目

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隅立て四つ目結 丸に平四つ目結 宗氏対馬府中藩12(11)代藩主 (1785年 - 1812年)

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