守分寿男
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もりわけ としお 守分 寿男 | |
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生誕 |
1934年 1月9日 日本の旗 日本・大分県 竹田市 |
死没 |
(2010年12月27日) 2010年 12月27日(76歳没) 日本の旗 日本・北海道 札幌市 |
出身校 | 小樽商科大学 |
職業 | テレビディレクター、映像プロデューサー |
配偶者 | あり |
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守分 寿男(もりわけ としお・1934年(昭和9年)1月9日 - 2010年(平成22年)12月27日)は、北海道放送(HBC)に所属していたテレビディレクター・映像プロデューサーである。
来歴
[編集 ]- 大分県 竹田市生まれ。父・美壽太は岡山県生まれで全国の旧制中学で教鞭をとり、戦後、砂川高等学校や月寒高等学校の校長を務めた。
- 1957年 小樽商科大学卒業後、HBC入社。『東芝 日曜劇場』を中心に数々のテレビドラマを演出・プロデュースする。
- 単発ドラマ枠としての日曜劇場終了後は報道制作局長や常務取締役などを歴任したが、1997年にHBCを退社しフリーの演出家・映像プロデューサーとなる。
- 2004年4月、劇団民藝の舞台公演『巨匠』を演出。
- 2008年2月、エッセー集『さらば卓袱台 -テレビドラマの風景-』(かもがわ出版)を発表。
- 2009年、第35回放送文化基金賞(個人・グループ部門)を受賞。
- 2010年 12月27日、硬膜下血種のため札幌市内の病院にて死去。76歳没。
- 2019年 1月12日〜3月31日、市立小樽文学館にて展覧会「守分寿男全仕事」が公開。
エピソード
[編集 ]- HBCや札幌ドームの社長を務めた長沼修は守分の部下にあたる。
- 倉本聰は東京から北海道に移住したきっかけのひとつとして守分の名を挙げており、「自分の意見をしっかりと出す人で大いに刺激を受けた」とコメントしている[1] 。
- アルペンスキー元日本代表の平澤岳は甥にあたる。
主な作品
[編集 ]参考資料:テレビドラマデータベース
東芝日曜劇場
[編集 ]- 日々の微笑(1964年 1月7日)
- 川(1964年11月15日)
- 母の童話(1967年 7月30日)
- わかれ(1967年11月19日)
- 女房の眼鏡(1968年 11月17日) - HBC製作回における、初のカラー(VTR収録)作品
- 羽音(1969年 12月14日)
- 流氷の原(1970年 6月7日)
- 銀の海(1971年 4月25日)
- 風船の上がる時(1972年 1月30日) - 日本民間放送連盟賞優秀賞作品
- でんでん太鼓(1972年)
- ばんえい(1973年 9月30日)
- りんりんと(1974年 9月8日)
- うちのホンカン(1975年 5月18日)- 日本民間放送連盟賞優秀賞作品
- ホンカンがんばる〜うちのホンカンPART2〜(1975年10月19日)
- 幻の町(1976年 2月8日) - 文化庁芸術祭優秀賞作品
- ひとり(1976年11月14日)
- 時計(1977年 11月13日)
- 遠い絵本(1979年 8月12日〜8月19日)
- あかねの空(1980年 9月21日)
- コスモス(1981年 9月20日)
- かげろうの花(1983年 9月4日)
- 林檎の木の下で(1989年 7月30日)
その他のドラマ
[編集 ]ドキュメンタリー
[編集 ]脚注
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外部リンク
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