大藤秀信
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大藤 秀信(だいとう ひでのぶ、生年不詳 - 元亀3年(1572年))は、戦国時代の武将。北条氏康・氏政の家臣で、相模国 田原城主、相模国中郡郡代で諸足軽衆の足軽大将[1] 。大藤信基の子[1] 。通称・与七、式部少輔(式部丞)、法号は芳円[1] 。室は山角康定の娘[1] 。息子に北条氏政から1字を賜った政信(2代目)がいる[1] が、秀信自身も氏政から1字を賜って同名の政信に改名している[1] 。そのため、息子と区別するために「初代政信」と呼ばれることがある。
父の信基の死去後の天文21年(1552年)に末子であったが、大藤氏の家督を継いだ[1] 。恐らく嫡子がいなかったためだと思われる。足軽衆を率いて各地を転戦し、特に永禄4年(1561年)に越後国の上杉謙信を撃退するのに大功を挙げた(大藤文書・北条氏政感状)[1] 。永禄11年(1567年)、武田信玄が駿河侵攻を行うと、今川援兵として武田軍と対峙し、掛川城、のちに韮山城に篭って抗戦した[1] 。しかし元亀2年(1571年)に甲相同盟が成立したため、一転して武田信玄の遠江侵攻に協力し、二俣城攻めに加わるが、元亀3年(1572年)11月の落城直前に銃弾に当たって戦死。家督は嫡男の2代目政信が相続した[1] 。
脚注
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