コンテンツにスキップ
Wikipedia

大岡忠與

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"大岡忠與" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2020年12月)
 
大岡忠與
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦9年(1759年)[1] または宝暦4年(1754年)[2] または宝暦5年(1755年)[3]
死没 天明6年10月17日(1786年 11月7日)
改名 匡之丞(幼名)、小笠原忠與、大岡忠與
別名 忠右衛門、忠与
戒名 顕誉性本完達院
完達院顕誉自覚性本[4]
墓所 浄見寺
官位 従五位下越前守
幕府 江戸幕府
三河国 西大平藩
氏族 源姓 小笠原氏藤原姓 大岡氏
父母 父:小笠原長逵、母:小林氏
養父:大岡忠恒
兄弟 長為忠苗政宣忠與
女子(水野勝起継室)
正室:大岡忠恒の養女(大岡忠宜の娘)
養子:忠移
テンプレートを表示

大岡 忠與(おおおか ただとも)は、三河 西大平藩第4代藩主。大岡忠世家6代当主。

播磨 安志藩第2代藩主・小笠原長逵の四男として生まれる。

西大平藩第3代藩主・大岡忠恒の養女を娶り、その養子として迎えられ、天明4年(1784年)に忠恒の隠居により家督を譲られる。同年、10代将軍徳川家治御目見して従五位下越前守に叙任するが、その2年後の天明6年(1786年)に死去した。

忠與には男児がおらず、家督は忠恒の次男の忠移が養子として継いだ。

系譜

[編集 ]

父母

正室

養子

脚注

[編集 ]
  1. ^ 寛政重修諸家譜
  2. ^ 『家譜』
  3. ^ 系図纂要
  4. ^ 『家譜』、『系図纂要』
大岡七宝 大岡氏 西大平藩4代藩主 (1784年 - 1786年)

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /