吉見広頼
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文4年(1535年?)[注釈 1] |
死没 | 慶長18年6月20日 [1] (1613年 8月6日) |
改名 | 亀王丸(幼名)[1] 、広頼[1] |
別名 | 次郎(通称)[1] |
戒名 | 秀巌院殿舸撤大居士[1] [注釈 2] |
墓所 | 山口県 阿武郡大井串山周鷹寺 [1] |
官位 | 大蔵大輔 [1] 、三河守 [1] |
主君 | 大内義隆、毛利元就、輝元 |
氏族 | 石見吉見氏 |
父母 | 吉見正頼 [1] 、大宮姫 [1] |
兄弟 | 広頼、広正 |
妻 |
津和野局(毛利隆元娘[1] ) 河原殿(内藤隆春娘[1] ) 光井勝良娘[1] |
子 |
矢野局[1] 、元頼 [1] 、広長 [1] 、正岫寿覚[3] 、珠光院(益田広兼正室)[1] 、 娘(宍道元信室)[1] 、娘(天野元景室)[1] 、娘(毛利就頼正室)[1] 養子:政春 [1] |
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吉見 広頼(よしみ ひろより)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏の家臣。石見国 津和野城主。
出自
[編集 ]石見の国人である石見吉見氏は、鎌倉幕府初代将軍 源頼朝の弟・範頼を遠祖とする清和源氏の支流・吉見氏の傍流にあたる。
生涯
[編集 ]吉見正頼の子として誕生[1] 。毛利氏よりその祖先・大江広元の1字を与えられて広頼と名乗る。
父が陶晴賢と対立し、天文23年(1554年)に籠城戦の末に一時降伏した際に人質となったが、翌天文24年(1555年)の厳島の戦いで晴賢が敗死すると解放された。
永禄6年(1563年)に初陣、出雲国 白鹿城攻めで本田豊前守を討ち取った。初陣後に毛利隆元の娘・津和野局を正室に迎えたが、元亀2年(1571年)に先立たれたため、内藤隆春の娘・河原殿を継室に迎えた。
天正7年(1579年)に備後国・美作国に出陣、天正10年(1582年)の備中高松城の戦いに出陣した。同年、父から家督を譲られる。
病弱で父ほどには信任を受けなかったが、毛利氏に忠実に仕え、天正14年(1586年)の九州平定で吉川元春・小早川隆景らと共に九州に従軍、豊前国 香春岳城攻めで功績を上げ、豊臣秀吉から感状を受け取った。
天正18年(1590年)の小田原征伐では、毛利水軍に加わり三沢為虎・熊谷元直・益田元祥・山内広通諸将と共に伊豆国 下田城を落とした。
文禄・慶長の役には病気で出陣出来ず、嫡男・元頼が代わりに渡鮮したが、文禄3年[1] (1594年)に元頼が津和野で病死、翌年[1] に継室も亡くなった。
慶長2年(1597年)に次男・広長を渡鮮させ、翌慶長3年(1598年)に広長に家督を譲り隠居した。
しかし、広長は毛利氏に反抗的で、慶長4年(1599年)に出奔したため当主に復帰、広長の帰参に腐心することになる。広長は慶長5年(1600年)に復帰したが、同年の関ヶ原の戦いで輝元は周防国・長門国に減封、広頼も津和野を離れて萩に移り住んだ。慶長9年(1604年)に広長が再び出奔[1] 、娘達も先立つなど晩年は不遇であった。
慶長17年(1612年)、吉川広家の次男を婿養子に迎え吉見政春と名乗らせ、翌18年(1613年)6月20日に死去[1] 。
広長は広頼の死後に帰参し家督を継いだが、元和4年(1618年)に輝元に討たれ、吉見氏は断絶した。政春も後に大野毛利家を興して、毛利就頼と改名した[1] 。
系譜
[編集 ]脚注
[編集 ]注釈
[編集 ]出典
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 津和野町 著、沖本常吉 編『津和野町史』津和野町史刊行会〈第1巻〉、1970年。 NCID BN03856783。全国書誌番号:73022334。
- 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。 国立国会図書館デジタルコレクション
- 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月。ISBN 462307689X。