半田百合子
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
半田 百合子
HANDA Yuriko | ||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
基本情報 | ||||||||||||||||||
国籍 | 日本の旗 日本 | |||||||||||||||||
生年月日 | (1940年03月31日) 1940年 3月31日(84歳)[1] | |||||||||||||||||
出身地 | 栃木県 宇都宮市 [1] | |||||||||||||||||
ラテン文字 | HANDA Yuriko | |||||||||||||||||
身長 | 166cm | |||||||||||||||||
体重 | 60kg | |||||||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||||||
ポジション | センター | |||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||
テンプレートを表示 |
半田 百合子(はんだ ゆりこ、現姓:中島[1] 、1940年 3月31日 [1] - )は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピックバレーボール女子金メダリスト。東洋の魔女 (Oriental Witches) [2] の主力メンバー[1] 。
来歴
[編集 ]1940年(昭和15年)3月31日 [1] 、栃木県 宇都宮市大寛町に生まれる[1] 。
父の転勤により栃木県栃木市に転居し、栃木市立栃木南中学校でバレーボールを始めた[1] 。
栃木県立栃木女子高等学校時代[1] は全く無名の選手だった。
高校卒業後、1958年に日紡(現・ユニチカ)に入社し、日紡東京で頭角を現し、日紡貝塚チームの大松博文に認められ、1959年11月に日紡貝塚チームに移籍する。
大松からの激しいしごき練習内容に「殺されそう」「もう辞めよう」と退部を申し入れながらも、大松からの慰留もあり最後までへこたれなかった[1] 。レシーブ、トス、スパイクと三拍子揃った好選手であり、運動神経のよさはチーム随一であった[3] 。そして東洋の魔女のレギュラーメンバーとして、1964年の東京オリンピック金メダル獲得に大きく貢献した。
東京五輪後に選手を引退し、1966年から京都産業大学体育講師を務めた[1] 。
その後、バレーボール界から退いて田崎真珠に入社し営業を担当[1] 。男社会の中で活躍し、大阪なんば店店長や女性初の京都ブロック長に就任した[1] 。この時期に離婚も経験した[1] 。2000年(平成12年)3月に定年退職した[1] 。
2000年(平成12年)9月の時点で2人目の夫と共に滋賀県の琵琶湖に近い別荘地で暮らしていた[1] 。
現在は講演講師を務めている。
球歴
[編集 ]脚注
[編集 ]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「下野新聞」2000年(平成12年)9月17日付 22面「とちぎ20世紀 87」「東洋の魔女」「半田 百合子(1940年-)」「拾って拾って五輪「金」」「小さなエース、攻め多彩」「「人生も回転レシーブ」モットーに」
- ^ Remembering the Oriental Witches: Sports, Gender and Shōwa Nostalgia in the NHK Narratives of the Tokyo Olympics / Oxford University Press
- ^ VOLLEYBALL(日本バレーボール協会機関誌)1964年10月号 45ページ
参考文献
[編集 ]- VOLLEYBALL(日本バレーボール協会機関誌)1965年2月号 40ページ
関連項目
[編集 ]外部リンク
[編集 ]- 半田百合子 - Olympic.org (英語)
- 半田百合子 - Olympedia (英語)Edit on Wikidata
- 半田百合子 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語)Edit on Wikidata
- システムブレーン - 半田百合子