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十市遠長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
十市遠長
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 文禄2年9月18日(1593年 10月12日)
官位 常陸介
主君 織田信長筒井順慶豊臣秀長
氏族 十市氏
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十市 遠長(とおち とおなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大和国 十市城主。官位常陸介

略歴

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十市氏の一族だが[1] 、当主・遠勝との関係は不明[2]

永禄12年(1569年)に遠勝が死去すると、十市氏を代表する立場となり[2] 、遠勝の代に引き続き松永久秀に従った[2] 元亀2年(1571年)8月、松永氏と敵対する筒井氏方の箸尾氏越智氏により十市郷を侵害され、12月には筒井順慶に十市城を包囲された[3]

この頃、十市氏は十市後室(遠勝の妻)方と遠長方とに分かれて対立していたらしく、元亀3年(1572年)3月、両者は和睦した[4] [注釈 1]

元亀3年(1572年)に松永久秀が織田信長と敵対すると、遠長は松永方から離れたとみられる[4] 。翌天正元年(1573年)、久秀が信長に降り[7] 、天正2年(1574年)、筒井順慶も岐阜に赴き信長と関係を深めている[8] 。同年2月、遠長は九条城(奈良県 天理市)を攻略[9] 。次いで内膳城(橿原市)を攻め、城主・藤田左近を討ち取っている[9] 。3月には多聞山城に入った柴田勝家とともに上洛し、信長に拝謁した[10] 。同年11月、森屋氏・筒井氏との三家同盟を成立させる[11]

天正3年(1575年)3月、塙直政が大和守護に任じられたが[12] 、翌4月、十市郷は直政・松永久通・十市氏で三分割され[13] 、十市氏分は遠長と十市後室で半分ずつ知行することになる[14] 。同年7月、松永久通とおなへ(遠勝の娘)が婚儀を挙げ、11月、久通は十市城の遠長を攻めた[15] 。翌天正4年(1576年)3月、久通に再び攻められ十市城は開城し、遠長は河内国へと逃れた[16]

遠長の消息はこれからしばらく見えないが、天正8年(1580年)11月に奈良にいることが『多聞院日記』から分かる[4] 。天正9年(1581年)には信長による伊賀攻めに加わり、筒井順慶のもとで活躍した(天正伊賀の乱)[17] [注釈 2] 。天正10月(1582年)には甲州征伐に従軍した[4]

天正13年(1585年)閏8月に筒井定次が伊賀へと転封になるとこれには従わず[17] 郡山城に入った羽柴秀長に仕えたとみられる[4]

この後、天正14年(1586年)10月の「十市郷侍衆払[19] 」により十市郷を追われ、伊予に渡ったと考えられる[17] 。その後、伊予で病を患い、文禄2年(1593年)9月18日に死去した[20] [17] [注釈 3]

脚注

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注釈

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  1. ^ 遠勝の死去以来、十市家中は松永派と筒井派に分裂し対立していたとの見方があり[5] 、松永派は十市後室とおなへ(遠勝の娘)を奉じ、筒井派は遠長を旗頭にしていたとされる[6] 。おなへは松永氏に人質となっていたことから、松永氏に親しみを抱いていたとみられる[6]
  2. ^ 『多聞院日記』天正9年9月8日条に「一昨日六日伊賀ニテ合戦、嶋衆少々損了、十常見事沙汰云々」とある[18]
  3. ^ 『武徳編年集成』では、秀長に追放されることもなく、秀長没後はその養子・秀保に仕え、文禄4年(1595年)に秀保が死去すると羽柴秀吉の直臣となって旧領を安堵されたとしている[4]

出典

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  1. ^ 朝倉 1993, p. 379; 谷口 2010, p. 297.
  2. ^ a b c 谷口 2010, p. 297.
  3. ^ 朝倉 1993, p. 381; 谷口 2010, p. 297.
  4. ^ a b c d e f 谷口 2010, p. 298.
  5. ^ 朝倉 1993, pp. 379–381.
  6. ^ a b 朝倉 1993, p. 379.
  7. ^ 朝倉 1993, p. 381; 天野 2018, p. 256; 金松 2019, pp. 50–51.
  8. ^ 朝倉 1993, p. 381; 金松 2019, p. 51.
  9. ^ a b 朝倉 1993, pp. 381–382; 谷口 2010, p. 298.
  10. ^ 朝倉 1993, p. 382; 谷口 2010, p. 298.
  11. ^ 金松 2019, p. 53.
  12. ^ 朝倉 1993, p. 382; 谷口 2010, p. 377; 天野 2018, p. 258.
  13. ^ 朝倉 1993, p. 382; 谷口 2010, p. 298; 天野 2018, p. 259.
  14. ^ 朝倉 1993, p. 382; 天野 2018, p. 259.
  15. ^ 朝倉 1993, p. 382; 谷口 2010, p. 298; 天野 2018, p. 259; 金松 2019, p. 56.
  16. ^ 朝倉 1993, p. 383; 谷口 2010, p. 298; 天野 2018, p. 260; 金松 2019, p. 56.
  17. ^ a b c d 朝倉 1993, p. 384.
  18. ^ 多聞院日記 第3巻(巻24-巻31)』三教書院、1936年、175頁。
  19. ^ 『多聞院日記』天正14年10月21日条(『多聞院日記 第4巻(巻32-巻40)』三教書院、1938年、45頁)。
  20. ^ 『多聞院日記』文禄2年12月21日条(『多聞院日記 第4巻(巻32-巻40)』三教書院、1938年、432頁)。

参考文献

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