値賀忠治
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値賀 忠治(ちが ちゅうじ、1887年(明治20年)7月25日[1] - 1981年(昭和56年)12月22日[1] [2] )は、日本の陸軍 軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・前田。
経歴
[編集 ]山形県 [1] [3] 、現在の山形市で[2] 、前田保の二男として生まれ値賀勇雄の養子となる[4] 。1907年(明治40年)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業[1] [5] 。同年12月、歩兵 少尉に任官した[5] [6] 。1916年(大正5年)11月、陸軍大学校(28期)を卒業した[1] [3] [7] 。
1922年(大正11年)8月、歩兵少佐に進級し、1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵少佐となった[6] 。1926年(大正15年)8月、航空兵中佐に昇進[6] 。1928年(昭和3年)8月、下志津陸軍飛行学校教官兼同校研究部部員に就任[6] 。1930年(昭和5年)8月、航空兵大佐に昇進し陸軍航空本部第2課長に就任[3] 。1932年(昭和7年)4月、飛行第8連隊長に転じた[3] 。1933年(昭和8年)8月、浜松陸軍飛行学校長に就任し、1935年(昭和10年)8月、陸軍少将に進級し同校幹事となる[1] [3] 。
1936年(昭和11年)8月、第3飛行団長に転じ[3] 、第一次上海事変の勃発により上海派遣軍隷下として出征した[1] 。1938年(昭和13年)7月、陸軍中将に進み陸軍航空技術学校長に発令されて帰国[1] [3] 。1939年(昭和14年)8月に待命となり、同月、予備役に編入された[1] [3] 。
その後、日本無線常務を務めた[2] 。1981年12月、老衰のため大田区の東京都立荏原病院(現東京都保健医療公社荏原病院)で死去した[2] 。
栄典
[編集 ]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章 [8]
脚注
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 『現代物故者事典 1980〜1982』日外アソシエーツ、1983年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和4年9月1日調』偕行社、1929年。