佐立七次郎
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佐立七次郎 | |
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生誕 |
安政3年12月7日 (1857年 1月2日) 讃岐国高松(現・香川県 高松市) |
死没 | 1922年(大正11年)11月5日 |
国籍 | 日本の旗 日本 |
出身校 | 工部大学校 |
職業 | 建築家 |
所属 | 工部省→海軍省→藤田組→逓信省→日本郵船 |
建築物 |
日本水準原点標庫 日本郵船小樽支店 |
佐立 七次郎(さたち しちじろう、旧字体:佐立 七次󠄁郞)は、明治時代に活躍した建築家。工手学校(現工学院大学)造家学科教員。工部大学校造家学科第一期卒業生。
経歴
[編集 ]伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません 。 人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2023年9月)
- 1857年(安政3年)讃岐藩士の子として高松城下(現、高松市)に生まれる。
- 1873年(明治6年)8月 工学寮に入学する
- 1879年(明治12年)11月 工部大学校造家学科を卒業(同期に辰野金吾、曾禰達蔵、片山東熊がいる)。工部省技手となり、営繕局勤務上野博物館建築掛を命じられる
- 1880年(明治13年)10月 鉱山局勤務となり、秋田県院内鉱山建築掛を命じられる
- 1882年(明治15年)4月 会計検査院建築掛を命じられ、設計・監督を担当する
- 1883年(明治16年)7月 海軍省に転任し、横須賀鎮守府造船所在勤建築課員営繕掛となり、学舎教授掛兼務を命じられる
- 1884年(明治17年)5月 依願免官となり、藤田組(現フジタ)に入る
- 1887年(明治20年)2月 逓信省に入り、逓信技師に任じられる。工学士の称号を認可される。
- 1888年(明治21年)郵便及び電信局舎建築法研究のため、欧米へ出張し、翌年帰国。
- 1891年(明治24年)10月 逓信省を辞し、建築設計事務所を開設する
- 1897年(明治30年)頃 日本郵船株式会社の建築顧問となる。
- 1912年(大正元年)12月 退社し、自宅で静養する
- 1922年(大正11年)11月 死去(享年67)。遺言により、遺体は慶應病院において解剖される
主な作品
[編集 ]建造物名 | 年 | 所在地 | 状態 | |
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/会計検査院 | 1885年(明治18年) | 13東京都千代田区 | 現存せず | |
/名古屋郵便局 | 1890年(明治23年) | 23愛知県名古屋市 | 現存せず | |
/東京九段郵便局 | 1891年(明治24年) | 13東京都千代田区 | 現存せず | |
/日本水準原点標庫 | 1891年(明治24年) | 13東京都千代田区 | 重要文化財 | 現在も公的建造物としての機能を有する |
/大阪中央郵便局 | 1892年(明治25年) | 27大阪市北区 | 現存せず | |
/東京株式取引所事務所立会所 | 1896年(明治29年) | 13東京都 | 現存せず | |
/旧日本郵船小樽支店 | 1906年(明治39年) | 01北海道小樽市 | 重要文化財 |
家族・親族
[編集 ]子の佐立忠雄(1886年 - 1952年)も建築家。作家・詩人の金子光晴の義祖父にあたる。
参考文献
[編集 ]関連項目
[編集 ]外部リンク
[編集 ]ウィキメディア・コモンズには、佐立七次郎 に関連するカテゴリがあります。
- 日本建築学会所蔵写真データベース