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伊藤治明

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いとう はるあき
伊藤 治明
プロフィール
出身地 北海道 河西郡 中札内村
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1952年02月03日) 1952年 2月3日(72歳)
血液型 O型
最終学歴 立命館大学 文学部卒業
職歴 北海道文化放送編成局アナウンス部(2007年5月早期退職)
活動期間 1975年 -
ジャンル 報道スポーツ番組
配偶者 あり
出演番組・活動
出演経歴 本文参照

伊藤 治明(いとう はるあき、1952年 2月3日 - )は北海道 河西郡 中札内村出身のフリーアナウンサー。アナウンス教室講師。オーディオブック話者。

来歴・人物

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北海道帯広三条高等学校を経て、立命館大学 文学部 哲学心理学専攻に進学し。学生時代には公営競技の実況をアルバイトで務めた。大学卒業後の1975年北海道文化放送(UHB)へ入社し。アナウンサーとして主にスポーツ中継や報道を担当。UHBの初期のスポーツ実況をほとんど担当したため、実況種目は10競技を超えている。競馬中継ではテンポイントハギノトップレディサッカーボーイの新馬戦を担当[1] したほか、ホウヨウボーイの大沼ステークス、ハギノトップレディとブロケードの新旧桜花賞馬対決となった巴賞も実況し、北海道競馬記者クラブ創設にも関わった。競馬の仕事を通して寺山修司との交流もあり、寺山には「レースでの騎手の駆け引きなど専門的なことなどを教えてもらった」[2] と回想。実況スタイルは踏襲していないが、盛山毅を師と仰ぎ、杉本清の影響を強く受けた。系列局の同期や1年先輩・後輩には馬場鉄志神田康秋堺正幸浅見博幸岩田雅人などがおり、親交も深かった。競馬以外では北海道マラソンUHB杯ジャンプラージヒルを第1回から実況し、他局の応援実況も積極的に引き受けた。1993年に制作部へ異動し、スポーツ番組のディレクター・プロデューサーとしてUHBスポーツ中継の基礎を築いた。北海道マラソンでは中継方式を移動車方式からセンター方式へと変更し、今日のマラソン中継の形を作り上げた。1999年からは映像局ライブラリー室勤務となり、取材用VTRテープの管理システムを共同開発したほか、フィルム素材のアーカイブ化を完成させて番組の企画・制作にあたった。2007年 5月31日に早期退職。退職と同時に北海道芸術高等学校で講師を務め2024年まで在籍する。その間、放送部顧問として「NHK杯放送コンテスト」「高文連放送コンテスト」などで多くの生徒を全国大会に送り出す。 現在は有限会社「イーヴォイス ナレーション工房」代表としてナレーションのオンライン制作に力を入れるほか、[3] 、養成所「札幌アナウンスセミナー」でアナウンサーナレーター声優育成の講師も務める。[4] 2014年には日本語検定1級を取得し、2021年には読人舎を設立。オーディオブッククリエイターとして、本名の他に「鬼城院護」「広小路学」名で作品を配信する[5]

出演番組

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競馬
マラソン
ウインタースポーツ
ゴルフ
バレーボール
テニス
  • ミルクランドカップテニス
アメリカンフットボール
相撲
  • uhb杯大相撲トーナメント
陸上

主な実況歴(判明分)

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関連項目

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脚注

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