コンテンツにスキップ
Wikipedia

五島盛利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?"五島盛利" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
(2011年2月)
 
五島盛利
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正19年(1591年)
死没 寛永19年7月19日(1642年 8月14日)
改名 孫次郎(幼名)、盛利、玄利(号)
別名 兵部(通称)
戒名 傑山伝英大円寺
墓所 長崎県 五島市大円寺町の大円寺
官位 従五位下 淡路守
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
肥前 福江藩
氏族 宇久氏五島氏
父母 宇久盛長、芳春(富永氏)
五島玄雅
奈留八太娘末子七里玄通娘梅子
盛次 、普照院(日向正春室)[1] 盛清
テンプレートを表示

五島 盛利(ごとう もりとし)は、肥前国 福江藩2代藩主。五島家22代当主。

生涯

[編集 ]

天正19年(1591年)、宇久盛長の長男として生まれる。文禄3年(1594年)に五島玄雅養子となる。慶長8年(1603年)に徳川家康に拝謁して、正式に世子として認められた。慶長17年(1612年)に玄雅が死去したため、家督を継いだ。[2]

慶長18年(1613年)から藩主権力強化のため、在郷の家臣団を城下に移住させ、兵農分離を進める福江直りと言われる政策を推進したが、慶長19年(1614年)8月15日に居城の江川城が焼失し、さらに大坂冬の陣も始まって出兵せざるを得なくなったため、一旦頓挫した。

元和5年(1619年)には玄雅の実子・角右衛門の養子であった大浜主水が、後継者の権利主張と盛利の失政を幕府に対して直訴した大浜主水事件が起こったが、幕府は盛利の正統性を認め、盛利は主水とその一派を処刑した。しかし、この事件は元禄期まで禍根を残すことにもなった。

寛永11年(1634年)までに福江直りの政策を完成させて藩主権力を確立し、さらに長子相続制の確立や検地の実施なども行なって藩政の基礎固めに務めた。

寛永19年(1642年)7月19日に死去した(異説として寛永21年(1644年)7月19日とも)。享年52。跡を長男の盛次が継いだ。[3]

系譜

[編集 ]

父母

正室、継室

子女

脚注

[編集 ]
  1. ^ 「盛次の妹」かつ「盛清の姉」とする文献が残る。
  2. ^ 『五島史と民俗』平山徳一
  3. ^ 『五島編年史 下巻』中島功(国書刊行会)
  4. ^ 寛文4年(1664年)6月) - 日向内記正春は旗本の日向政成の三男。盛利が請いて家臣に迎えた。4百石。

参考文献

[編集 ]
  • 中島功『五島編年史 下巻』 国書刊行会 1973年
五島氏福江藩2代藩主 (1612年 - 1642年)

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /