久春内村
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くしゅんないむら 久春内村 | |
---|---|
廃止日 | 1949年 6月1日 |
廃止理由 |
国家行政組織法施行 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本の旗 日本 |
地方 | 樺太地方 |
都道府県 | 樺太庁 真岡支庁 |
郡 | 泊居郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 370.152[1] km2. |
総人口 |
2,931人 (1941年 12月1日) |
隣接自治体 |
泊居郡名寄村 恵須取郡 珍内町 豊栄郡 白縫村 元泊郡 帆寄村 |
久春内村役場 | |
所在地 | 樺太庁泊居郡久春内村 |
座標 | 北緯47度59分 東経142度13分 / 北緯47.99度 東経142.21度 / 47.99; 142.21 座標: 北緯47度59分 東経142度13分 / 北緯47.99度 東経142.21度 / 47.99; 142.21 |
特記事項 | 1943年 4月1日以降は北海地方に所属。 |
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久春内村(くしゅんないむら)は、日本の領有下において樺太に存在した村(指定町村)。
久春内という地名は、アイヌ語の「クシ・ウン・ナイ」(山道を越えて流れ続けている川)、「クシュ・ウン・ナイ」(いつも船で行き来する川)による[2] 。
現在はこの周辺をロシア連邦がサハリン州イリインスキーとして実効支配している(行政区分は一致しない)。
概要
[編集 ]- 北緯48度線に位置し、江戸時代から明治時代にかけてこの辺りまでは日本の影響が及んでいたとされている。
- 西は間宮海峡に面していた。
- この地は樺太の東西海岸の距離が最短となる地域であり、久春内駅からは東海岸の樺太東線 真縫駅までを結ぶバスが運行されていた。同区間を結ぶ鉄道計画(真久線)も存在したが、日本統治時代には着工されず1971年にソ連により実現した。
- 久春内駅は樺太西線の最北の駅でもあった。
- 久春内神社は豊原の樺太神社と並んで樺太では古い神社であり[3] 、久春内競馬場も樺太では早期に開設された競馬場の一つである[4] 。
歴史
[編集 ]- 1915年(大正4年)6月26日 - 「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)の施行により行政区画として発足。久春内郡に所属し、泊居支庁久春内出張所が管轄。
- 1929年(昭和4年)7月1日 - 樺太町村制の施行により二級町村となる。
- 1942年(昭和17年)11月 - 所属郡が泊居郡に、管轄支庁が真岡支庁にそれぞれ変更。
- 1943年(昭和18年)4月1日
- 「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)が廃止され、内地編入。
- 指定町村となる。
- 1945年(昭和20年)8月22日 - ソビエト連邦により占拠される。
- 1949年(昭和24年)6月1日 - 国家行政組織法の施行のため法的に樺太庁が廃止。同日久春内村廃止。
村内の地名
[編集 ]- 久春内
- 上久春内
- 牛毛(うしげ)
- 和良(わら)
- 問平(といひら)
- 小茂白(こもしら)
- 洞内(ほらない)
- 海辺(うんべ)
- 宇蘭(うらん)
- 萌留(もえる)
- 江戸内(えどない)
- 真久(まひさ)
- 上宝沢(かみたからざわ)
- 宝沢(たからざわ)
- 大塚(おおつか)
- 東條(とうじょう)
- 三角沢(さんかくざわ)
- 高塚(たかつか)
- 仁尾(にお)
- 北奥内(きたおくない)
- 七里
([5] )
地域
[編集 ]教育
[編集 ]以下の学校一覧は1945年(昭和20年)4月1日現在のもの[6] 。
- 樺太公立牛毛国民学校
- 樺太公立宝沢第一国民学校
- 樺太公立宝沢第三国民学校
- 樺太公立久春内国民学校
脚注
[編集 ][脚注の使い方]
- ^ 樺太年鑑 昭和8年(樺太敷香時報社・著、樺太敷香時報社 1933年)に「廣袤實に二十四方里を占め」とあり。
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実 p.353 - 354
- ^ http://www.himoji.jp/himoji/database/db04/permalink.php?id=2042
- ^ 樺太庁編集『樺太時報』25号、1929年5月、55頁
- ^ 南樺太:概要・地名解・史実(西村いわお・著、高速印刷センター内出版部 1994年)より。
- ^ 北海道立教育研究所『北海道教育史 地方編2』(1957年)p. 1683