久保田与四郎
表示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています 。 ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年5月)
久保田 与四郎(くぼた よしろう、文久3年1月11日(1863年 2月28日) - 大正8年(1919年)4月24日)は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。
来歴・人物
[編集 ]文久3年(1863年)、信濃国 小県郡 長瀬村(現長野県 上田市)で出生。旧姓は高柳。
16歳にして長野師範学校を出て小学校教員となる。明治14年(1881年)1月辞して、翌年慶應義塾に入るが、2年にして帰郷。後に再度上京して明治法律学校に入学。代言人(弁護士)免許を得て、明治19年(1886年)卒業。
明治20年(1887年)1月、東京にて弁護士を開業。後にロンドンに留学して、法学、政治学を学ぶ。
英船ノルマントン号事件の名誉回復訴訟における原告代理人などを務めた。
明治22年(1889年)2月に小県郡から最多得票で長野県会議員に当選するが、本籍地ではないという理由で資格を失ってしまい、以後国政に転じて衆議院議員となった。立憲改進党(のち進歩党、憲政本党)に所属した。
また信濃倶楽部を創立して辻新次(初代文部次官、貴族院議員)らと共に創立以来の幹事を務めた。
著作
[編集 ]参考文献
[編集 ]- 『日本弁護士高評伝』誠協堂、1891年。
- 『新選代議士列伝』金港堂書籍株式会社、1902年。