コンテンツにスキップ
Wikipedia

丹羽長政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 武将・大名の「丹羽長正」とは別人です。
 
丹羽長政
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文18年4月14日(1549年 5月11日)[1]
別名 通称:修理亮
戒名 禅慶
主君 斯波義統
氏族 丹羽氏(道隆流良文流良岑流)
父母 丹羽忠長[2]
長忠長秀秀重、女(松原伊賀守室)、女(大津長昌室、後に蜂屋頼隆室)、女(浅見忠実室)
テンプレートを表示

丹羽 長政(にわ ながまさ)は、戦国時代武将尾張 守護斯波氏の家臣。

略歴

[編集 ]

斯波義敏家臣の丹羽忠長の子[2] 丹羽長秀の父。

丹羽氏の出自は三説ある。一つ目は藤原姓とするもので、関白 藤原道隆の子伊周の次男遠峰の末流とする武蔵国 春日井郡 児玉党の一族で、忠長が尾張国丹羽郡児玉村に移って丹羽氏を称して、守護の斯波氏に仕えたとする[3] [1] [4] 。二つ目は平姓とするもので、建仁元年(1201年)に梶原景高(良文流)の子豊丸(景親)が尾張丹羽郡羽黒村に逃れてきたときの7人の従者のうちのひとりの丹羽家兼の末裔とするものである[3] 。三つ目は桓武天皇の皇子良岑安世の裔孫と称するもので、忠長を二十九代子孫とする良岑姓である[3] [4]

丹羽氏」も参照

『丹羽家譜』では、二回改姓したとあり、平姓から藤原姓にして、最後に良岑姓に戻したとある[1]

長政は斯波義統に仕えて武功があったという[1]

天文18年(1549年)に亡くなる。法名は禅慶[4]

跡を継いだ長男の長忠も同じく義統の家臣で、天文23年(1554年)7月12日、守護代織田信友清洲城を奇襲した清洲合戦で戦死して[3] 、無嗣断絶したので[1] 織田信長家臣の次男の長秀が本流となった。

脚注

[編集 ]
  1. ^ a b c d e 丹羽家譜, p. 431.
  2. ^ a b 加藤国光, p. 676.
  3. ^ a b c d 加藤国光, p. 686.
  4. ^ a b c 堀田 1923, p. 744.

参考文献

[編集 ]

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /