且鞮侯
且鞮侯(しゃていこう、拼音:Qiĕdīhóu、? - 紀元前96年)は、中国 前漢時代の匈奴の単于。伊稚斜単于の子、呴犁湖単于の弟。単于号が無く、且鞮侯というのは名で、姓は攣鞮氏。
生涯
[編集 ]伊稚斜単于の子として生まれる。
太初3年(前102年)、兄の呴犁湖単于が即位すると、且鞮侯は左大都尉となるが、その年の冬に呴犁湖単于が病死したので、単于に即位した。
太初4年(前101年)、漢は大宛を討伐。その威勢は諸外国を震撼させた。単于且鞮侯は恐れて、今まで留置していた漢の使者たちを全員帰国させ、敵意がないことを伝えた。そこで漢は中郎将の蘇武を派遣して、単于に多額の贈物を送った。すると単于は次第につけあがって、傲慢な態度をとるようになった。
天漢元年(前100年)、匈奴に捕まっていた浞野侯趙破奴は脱走して漢に帰国した。
天漢2年(前99年)、漢は弐師将軍の李広利率いる3万の騎兵を酒泉から出撃させ、右賢王を天山で撃ち、首虜万余級を得て還った。匈奴は大挙して李広利を包囲した。李広利の兵はほとんど脱出することができず、10分の6〜7が戦死した。漢はまた因杅将軍の公孫敖を西河から出撃させ、強弩都尉の路博徳と涿邪山で合流したが、何もなかった。騎都尉の李陵率いる歩兵5千人を居延の北千余里から出撃させ、単于且鞮侯と遭遇し戦闘になった。李陵は万余人を殺傷したが、兵糧が尽きたので撤退しようとしたところ、単于に包囲され、匈奴に降った。単于且鞮侯は李陵に自分の娘を娶らせた。
天漢4年(前97年)、ふたたび漢は弐師将軍の李広利率いる6万の騎兵と10万の歩兵を朔方から出撃させ、強弩都尉の路博徳率いる1万、游撃将軍の韓説率いる3万を五原から出撃させ、因杅将軍の公孫敖の4万を雁門から出撃させた。匈奴はこのことを聞くと、遠く余吾水の北までの足手まといになるものを撤退させ、単于は10万の騎兵を率いて李広利と河南で戦闘となった。李広利は匈奴に降伏し、韓説は何の成果もなく、公孫敖は左賢王と戦ったが敗北して引き揚げた。
太始元年(前96年)、単于且鞮侯は死に、長子の左賢王が狐鹿姑単于となった。
参考資料
[編集 ]統一時代 | |||||||
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分裂時代 |
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再統一時代 | |||||||
王莽が冊立した単于 | |||||||
北匈奴 | |||||||
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