上林敬吉
上林 敬吉(かんばやし けいきち、1884年5月12日 - 1960年3月9日)は、日本の建築家。米国聖公会の宣教建築家(Mission Architect)のもとで教会の建設に携わるとともに、設計事務所を立ち上げて独自の設計も行ったほか、聖路加国際病院の施設増改築や管理を行った[1] 。
人物・経歴
[編集 ]1884年(明治17年)5月12日、京都市 上京区で生まれる[1] 。京都の高等小学校を中退した7年後の1903年(明治36年)に茨城県土木課に務める[1] [2] 。敬吉は、京都での少年時代に既にジェームズ・ガーディナーと出会ってその影響を受け、その後関東へ転じたものと考えられる[3] 。
1904年(明治37年)、横浜で下田菊太郎が営む下田建築合資会社に移り、2年間勤務する[2] 。
1906年(明治39年)米国聖公会ミッション・アーキテクト(信徒建築家)のジェームズ・ガーディナーが東京で開設して間もない建築設計事務所に勤務する[1] [2] 。このガーディナー事務所時代は、日本聖公会の施設のほか、外国公館や貴顕の邸宅も担当する[1] 。ガーディナー事務所での最初の5年間は設計助手と現場監督を担いつつ、1909年(明治42年)から、夜は正則英語学校(現・正則学園高等学校)英語専修科に通った[3] 。1911年(明治44年)に正則英語学校を中途退学し、設計主任へ昇進する[3] 。
1925年(大正14年)にガーディナーが亡くなると、東京に設計事務所を開設する。この際、ガーディナーが残した仕事を継承するとともに、米国聖公会ミッション・アーキテクトであるジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニとの協働を進めていく[1] 。バーガミニとの共作においては、工法・構造に加え、平面と意匠を標準化して、カスタマイズも図るなど、鉄筋コンクリート造の「白い礼拝堂群」を生み出した。
その後、後年になると単独設計も行っていくが、バーガミニとの共作による枠組みを超える独自な事例を残していく[1] 。
日中戦争に伴い戦時下となったことから1937年(昭和12年)に事務所を閉めたのち、聖路加国際病院において、病院理事会の指名建築家として勤務する[1] [2] 。
翌1938年(昭和13年)から1960年(昭和35年)に勤務先で亡くなるまでの間、同病院の営繕課長として病院施設の増改築と管理を行った[1] [2] 。そのほか、個人の立場では日本聖公会の礼拝堂の新築や戦災復興に携わった[1] 。
主な作品
[編集 ]ガーディナー建築事務所時代のスペイン公使館(現・スペイン大使館公邸)やオランダ大使館(現・オランダ大使館公邸)のほか、ジョン・ヴァン・ウィー・バーガミニとの多くの共作に加え、以下の作品などがある。
建造物名 | 年月 | 所在地 | 状態 | 備考 |
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日本聖公会宇都宮聖ヨハネ教会礼拝堂 | 1933年(昭和8年)聖別 | 栃木県宇都宮市桜 | 現存 | 坪谷熊平(施工) |
日本聖公会大宮聖愛教会礼拝堂 | 1934年(昭和9年)聖別 | 埼玉県さいたま市大宮区桜木町 | 現存 | 清水組(施工) |
日本聖公会前橋聖マッテア教会マキム主教記念礼拝堂 | 1952年(昭和27年)聖別 | 群馬県前橋市大手町 | 現存 | 清水建設(施工) |
脚注
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