三浦忠次郎
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三浦 忠次郎 | |
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生誕 |
1888年 4月23日 日本の旗 日本 東京府 |
死没 | (1962年02月16日) 1962年 2月16日(73歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1913年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
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三浦 忠次郎(みうら ちゅうじろう、1888年(明治21年)4月23日 [1] - 1962年(昭和37年)2月16日 [1] )は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級 [2]
経歴
[編集 ]1888年(明治21年)に東京府で生まれた[1] 。陸軍士官学校第25期、陸軍大学校第33期卒業[1] 。1935年(昭和10年)に朝鮮軍参謀に就任した[2] 。1937年(昭和12年)8月に陸軍歩兵大佐に進級し[2] 、陸軍士官学校附に発令され[2] 、1938年(昭和13年)に歩兵第4連隊長に就任した[2] 。
1939年(昭和14年)8月に陸軍少将に進級[2] 、歩兵第130旅団長(第13軍・第116師団)に就任し[1] 、日中戦争に出動[1] 。安慶に駐屯し[1] 、揚子江岸冬季作戦、皖南作戦、皖浙作戦、大別山作戦などの各作戦に参加した[1] 。1941年(昭和16年)10月に第4師団司令部附となり[1] 、1942年(昭和17年)7月18日に第4師団兵務部長を経て[1] 、12月2日に陸軍中将に進級し[2] 、第64独立歩兵団長に就任した[1] 。1943年(昭和18年)10月1日に第69師団長(第1軍)に親補され[1] 、霊宝会戦では本村千代太歩兵第59旅団長が戦死するなど激戦であったが[1] 、敵軍を撃砕した[1] 。その後第13軍隷下に編入され[1] 、終戦時は嘉定にあった[1] 。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[3] 。
脚注
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参考文献
[編集 ]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。