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ヴィルヘルム・クシランダー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヴィルヘルム・クシランダー
クシランダーの肖像画、版画。Bibliotheca chalcographica より
生誕 1532年 12月26日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国帝国自由都市 アウクスブルク
死没 1576年 2月10日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国プファルツ選帝侯領ハイデルベルク
国籍 ドイツ人
職業 大学教授
著名な実績 マルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』をはじめてラテン語に翻訳
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ヴィルヘルム・クシランダー(ドイツ語: Wilhelm Xylander、出生名ヴィルヘルム・ホルツマン(ドイツ語: Wilhelm Holtzman、後にギリシア語化して「クシランダー」となった)、1532年 12月26日 - 1576年 2月10日)は、神聖ローマ帝国の古典学者、人文主義者。1564年、ハイデルベルク大学学長を務めた[1]

生涯

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アウクスブルクで生まれ、テュービンゲン大学で教育を受けた。1558年、金欠(不節制によるとされることもある)だった最中にヤーコプ・ミキルス (英語版)の後任としてハイデルベルク大学ギリシア語担当教授になり、1562年に論理学(publicus organi Aristotelici interpres)に乗り換えた[2]

ハイデルベルク教会と大学の政治においてはトマス・エラストスを支持した[3]

クシランダーはディオ・カッシウス(1558年)、プルタルコス(1560年 - 1570年)、ストラボン(1571年)など多くの著作をラテン語に翻訳した。また、ビュザンティオンのステファヌス (英語版)による地理語彙目録(1568年)、パウサニアスの旅行記(クシランダー死後の1583年、フリードリヒ・シルブルク (英語版)によって完成)、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』(初版は1558年、現在は失われているハイデルベルクの写本に基づくエディティオ・プリンセプス (英語版)。第2版は1568年、いずれもパラドクサ (英語版)作家であるアントニヌス・リベラリストラリアノスのフレゴン (英語版)アポロニオスカリストゥスのアンティゴノス (英語版)の著作を追加して出版)、ゲオルギオス・ケドレノス (英語版)のクロニクル(1566年)など多岐にわたる著作物を編集した。ほかにもエウクレイデスの1巻から6巻までを注釈つきでドイツ語に翻訳、アレクサンドリアのディオファントスの『算術[4] ミカエル・プセルロスDe quattuor mathematicis scientiisをラテン語に翻訳した[2]

作品

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脚注

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  1. ^ Drüll, Dagmar (2002). Heidelberger Gelehrtenlexikon 1386-1651. Berlin: Springer. pp. 562–563. ISBN 3540435301  
  2. ^ a b Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Xylander, Guilielmus"  . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 889.
  3. ^ Gunnoe, Charles (2011). Thomas Erastus and the Palatinate: A Renaissance Physician in the Second Reformation. Leiden: Brill. p. 201. ISBN 9789004187924  
  4. ^ Weil, André (2006). Number Theory: An approach through history from Hammurapi to Legendre. Springer Science & Business Media. p. 31. https://books.google.com/books?id=XSV0hDFj3loC&pg=PA31  

外部リンク

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