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ルートヴィヒ5世 (バイエルン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルートヴィヒ5世
Ludwig V.
ブランデンブルク辺境伯
チロル伯
上バイエルン公
在位 ブランデンブルク辺境伯:1323年 - 1351年
チロル伯:1342年 - 1361年
バイエルン公:1347年 - 1349年
上バイエルン公:1349年 - 1361年

出生 1315年5月
死去 1361年 9月18日(46歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バイエルン公領、ツォルネディング
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バイエルン公領ミュンヘン、フラウエン教会
配偶者 マルガレーテ・フォン・デーネマルク
  マルガレーテ・フォン・ティロル
子女 エリーザベト
ヘルマン
マインハルト
家名 ヴィッテルスバッハ家
父親 神聖ローマ皇帝 ルートヴィヒ4世
母親 ベアトリチェ・シフィドニツカ
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ルートヴィヒ5世(Ludwig V., 1315年 - 1361年 9月18日)は、14世紀上バイエルン公(在位:1349年 - 1361年)。ブランデンブルク辺境伯(在位:1323年 - 1351年)、チロル伯(在位:1342年 - 1361年)も兼ねた。神聖ローマ皇帝 ルートヴィヒ4世とヤヴォル公ボルコ1世の娘ベアトリチェの長男。シュテファン2世は同母弟、ルートヴィヒ6世ヴィルヘルム1世アルブレヒト1世オットー5世は異母弟である。

生涯

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1323年、8歳で父からブランデンブルク辺境伯領を譲られ、1342年にはケルンテン公 ハインリヒ6世の一人娘でヨハン・ハインリヒと離婚したマルガレーテと結婚した。この領土拡大政策は諸侯の反発を招き、マルガレーテとルートヴィヒ夫妻は破門1346年カール4世対立王に擁立される原因になった。

1347年に父が没した時、義兄のマイセン辺境伯 フリードリヒ2世ローマ王に推戴しようとしたが、拒否された。1349年にはギュンター・フォン・シュヴァルツブルクを対立王に擁立したが、ギュンターはすぐに退位した。同年、5人の弟と父の遺領を分割、ルートヴィヒ5世は上バイエルンを異母弟のルートヴィヒ6世、オットー5世と共同統治することになった(下バイエルンは同母弟のシュテファン2世、異母弟のヴィルヘルム1世、アルブレヒト1世が治めた)。

1351年、ブランデンブルク辺境伯領をルートヴィヒ6世に譲渡、引き換えに上バイエルンはルートヴィヒ5世の単独統治となった(オットー5世も所領を譲った)。オーストリア公 アルブレヒト2世の尽力で1359年に破門を解除される[1] が、1361年に46歳で死去した。

マルガレーテとの間の子マインハルトに遺領が相続されたが、マインハルトも1363年夭折すると、オーストリア公ルドルフ4世(アルブレヒト2世の子)とシュテファン2世が領土を巡って争うことになる。

家族

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1324年デンマーク王 クリストファ2世の娘マルガレーテ(1305年 - 1340年)と結婚した。

  1. エリーザベト(1326年 - 1345年)

1342年にチロル伯領相続人マルガレーテ(1318年 - 1369年)と再婚した。

  1. ヘルマン(1343年 - 1360年)
  2. マインハルト(1344年 - 1363年) - 上バイエルン公、チロル伯マインハルト3世

他に2人の娘がいたが、夭折したようである。

脚注

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  1. ^ ツェルナー、p. 175

参考文献

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  • エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 彩流社、2000年
先代
ルートヴィヒ4世
バイエルン公
1347年 - 1349年
シュテファン2世ルートヴィヒ6世ヴィルヘルム1世アルブレヒト1世オットー5世と共同統治
次代
上バイエルンと下バイエルンに分割
先代
バイエルンから分割
上バイエルン公
1349年 - 1361年
ルートヴィヒ6世オットー5世と共同統治(1351年まで)
次代
マインハルト
先代
ヨハン・ハインリヒ
チロル伯
1342年 - 1361年
マルガレーテと共同統治
次代
マインハルト3世

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