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モー包囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モー包囲戦

戦争:百年戦争
年月日:1421年10月6日から1422年5月10日
場所:モー(フランス)
結果:イングランド王国軍の勝利
交戦勢力
フランス王国 イングランドの旗 イングランド王国
指導者・指揮官
不明 ヘンリー5世
戦力
不明 20,000以上
損害
甚大 甚大
百年戦争
百年戦争(1337年 - 1360年)
キャドザント - アルネマイデン - イギリス海峡 (英語版) - カンブレー (英語版) - スロイス - サン・トメール - トゥルネー (英語版) - ベルジュラック (英語版) - オーブロッシェ - エギュイヨン (英語版) - カーン - ブランシュタック - クレシー - カレーI - ネヴィルズ・クロス - ルナローニュ (英語版) - カレーII (英語版) - ウィンチェルシー - サン=ジャン=ダンジェリ (英語版) - サント (英語版) - アルドル (英語版) - ブールジュI (フランス語版) - ポワティエ - ジャックリー - ランス (英語版) - パリI (フランス語版) - シャルトル (英語版)

ブルターニュ継承戦争 (1341年 - 1364年)
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百年戦争(1369年 - 1389年)
コシュレル - ナヘラ - モンティエル - リモージュ (英語版) - パリII (フランス語版) - ポンヴァラン - ガーンジー (フランス語版) - ラ・ロシェルI - スービーズ (フランス語版) - シーゼ (英語版) - バイヨンヌ (フランス語版) - サン・マロ (フランス語版) - ナント (フランス語版) - ローゼベーケ


百年戦争(1407年 - 1453年)
ルテル (フランス語版) - ブールジュII (フランス語版) - ドルー (フランス語版) - アルフラール (英語版) - アジャンクール - ヴァルモン (英語版) - カーンI (英語版) - ルーアンI (英語版) - ラ・ロシェルII (英語版) - ムラン (フランス語版) - パリIII (フランス語版) - ボージェ - モー - ベルネー (フランス語版) - クラヴァン - ヴェルヌイユ - サン=ジャム (英語版) - モンタルジ (英語版) - ラヴァルI (フランス語版) - オルレアン - ニシンの戦い - ジャルジョー - モン=シュル=ロワール - ボージャンシー - パテー - トロワ (フランス語版) - パリIV - ラヴァルII (フランス語版) - ラ・シャリテ (英語版) - コンピエーニュ - ラニー (フランス語版) - ジェルブロワ (英語版) - パリV - カレーIII (英語版) - ポントワーズ (英語版) - タルタス (英語版) - ディエップ (英語版) - フージェール (フランス語版) - ルーアンII (フランス語版) - フォルミニー - カーンII (英語版) - ファレーズ (英語版) - シェルブール (英語版) - ボルドーI (フランス語版) - マルティニャ (フランス語版) - カスティヨン - ボルドーII

モー包囲戦(モーほういせん、英語: Siege of Meaux)は、 1421年10月から1422年5月にかけてフランス王国イングランド王国の間で行われた百年戦争の戦いの一つである。イングランド王ヘンリー5世率いるイングランド軍が、パリ北東のモーの町を包囲して8カ月の攻城戦の後に攻略した。勝利したものの、ヘンリー5世は冬季の陣中で疫病にかかり、3カ月後に病死した。

背景

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1415年、ヘンリー5世はフランスに上陸してアジャンクールの戦いでフランス軍を大敗させた。イングランドと同盟を結ぶブルゴーニュ派はこれに乗じてパリを掌握し、1417年に再上陸したイングランド軍は北部の都市ルーアンを陥落させ、ノルマンディーもイングランドの手に落ちた。[1] [2] 国王に忠誠を誓うアルマニャック派と親英のブルゴーニュ派は内戦状態に突入していた。絶望的な戦況の中で、フランスの王太子(ドーファン)シャルル(後のシャルル7世)は1419年、同盟国のスコットランド王国に助けを求めて援軍を得た。ヘンリー5世は弟のクラレンス公トマス・オブ・ランカスターをフランス駐留軍の司令官として残して1421年はじめに帰国するが、同年3月に起きたボージェの戦いでイングランド軍はフランス・スコットランド連合軍に敗れてクラレンス公が戦死した。

弟の戦死の報を聞いたヘンリー5世は復讐のために4,000の兵を率いて6月にフランス・カレーに再上陸し、イングランドの支配下にあったパリの支援に急行した。当時パリはモー、ドルージョワニーを拠点とするフランスの軍勢に脅かされていたため、ヘンリー5世はこの脅威を排除すべくドルーを攻め落とすと更に南進してヴァンドームボージャンシー (英語版)などの諸都市を攻略し、フランス側の一大拠点であるオルレアンに向かった。しかし補給が十分でなかったため、オルレアンの包囲を3日で解くと再び北上し、20,000以上の兵でモーを包囲した。

戦闘

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包囲は1421年10月6日に始まった。地下坑道の掘削と爆破工作により、外壁はすぐに崩壊したが、守備隊も粘り強く抵抗した。イングランド軍も攻城戦が長引くにつれて犠牲が増え、戦死した数千の中には名だたる貴族たちも含まれるようになっていった。また、陣中には疫病が蔓延し、赤痢天然痘で死亡する者も増えていった。ヘンリー5世も体調を崩したが、落城するまでは陣を離れようとしなかった。12月、本国から妃のキャサリン・オブ・ヴァロワが王子ヘンリー(後のヘンリー6世)を生んだという知らせが入った。1422年5月10日までに、ようやくモーの町とフランス軍守備隊は降伏した。しかし、この時点でヘンリー5世は赤痢に罹患しており、病状はかなり悪化していた。馬に乗ることもできなくなっていたヘンリー5世は、運び込まれた先のヴァンセンヌで8月31日に35年の生涯を閉じた。[3]

その後

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内紛状態に陥っていたフランス側に対して積極的な攻勢を仕掛けたヘンリー5世の死により、百年戦争の戦況は再び混沌とし始めた。イングランド王位を継いだヘンリー6世は幼少のため、摂政ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターが後見し、戦争を継続した。1423年のクラヴァンの戦い、1424年のヴェルヌイユの戦いでフランス軍は連敗を喫し、1428年からのオルレアン包囲戦でフランスは窮地に追い込まれる。そこに登場して戦況を一変させたのが「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルクだった。


関連項目

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脚注

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  1. ^ Curry. Arms, Armies and Fortifications in the Hundred Years' War. pp. 44–45
  2. ^ Allmand, C.T (2008年). "Henry V (1386–1422) in Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004; online edn. Subscription Required". 30 May 2013閲覧。
  3. ^ Seward, Desmond (1978). The Hundred Years War. New York: Penguin Books. pp. 186–187. ISBN 0-689-10919-9  

参考文献

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  • Burne, A.H. (1991) [1956]. The Agincourt War. London: Greenhill Books. p. 81. ISBN 1853670871  
  • Smith, Robert; Kelly DeVries (2005). The Artillery of the Dukes of Burgundy 1363 - 1477. Woodbridge, Suffolk: Boydell & Brewer. pp. 150–1. ISBN 1843831627  
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