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ベルナルド (イタリア王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベルナルド
Bernardo
イタリア王
ベルナルドの墓のフレスコ画(ミラノ)
在位 810/3年 - 818年

出生 797年
フランク王国オー=ド=フランス
死去 818年 4月17日
フランク王国アーヘン
埋葬 イタリア王国ミラノサンタンブロージョ教会
配偶者 キュネゴンド(ギレム家?)
子女 ピピン
家名 カロリング家
王朝 カロリング朝
父親 ピピン
母親 ルオトハイト
宗教 キリスト教 カトリック教会
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ベルナルドまたはベルンハルト(:Bernardo, :Bernhard, 797年 - 818年 4月17日)は、カロリング家出身のイタリア王(在位:810/3年 - 818年)。イタリア王ピピンの庶子。

生涯

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810年に父ピピンが死去した後、祖父カール大帝アーヘンの宮廷に引き取られ、イタリアの統治はカール大帝の側近アーダルハルトに委ねられた[1] 。その後、ベルナルドはカール大帝によりフルダ修道院に送られたものの間もなく呼び寄せられ、812年にはイタリアの統治をまかされ、翌813年には正式にイタリア王としての地位を与えられた[2] 。814年、カール大帝は死去し、単独皇帝となった叔父ルートヴィヒ1世は改めてベルナルドのイタリア王としての地位を認めた[3] 。しかし817年、ルートヴィヒは「帝国整序令」において、自らの長男ロタールを共同皇帝とし、次男、三男をそれぞれアクイタニアおよびバイエルンの王とすることを定めたが、この中でベルナルドの存在は無視され、ベルナルドが統治するイタリアはロタールの帝国の下に置かれることとなった[4] 。この決定に不満であったベルナルドは叔父ルートヴィヒ1世に対して反乱を起こしたが鎮圧され、ベルナルドは目をえぐられる刑を受け、それがもとで818年死去した[4]

息子ピピンヴェルマンドワ伯となり、男系子孫は12世紀始めまで同伯を継承した(ヴェルマンドワ家)。

脚注

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  1. ^ 五十嵐、p.209
  2. ^ 五十嵐、p.213
  3. ^ 成瀬他、p.83
  4. ^ a b 瀬原、p.41

参考文献

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  • 五十嵐修『地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝の〈ヨーロッパ〉』講談社、2001年
  • 成瀬治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
イタリア王(810/3年 - 818年)
カロリング朝

カルロ・マーニョ 774-814 / ピピン (父と共治)781-810 / ベルナルド 810/3-818 / ロドヴィコ1世 818-840 / ロターリオ1世 818/22-855 / ロドヴィコ2世 844-875 / カルロ2世 875-877 / カルロマンノ 877-879 / カルロ3世 879-887

諸家対立王

ベレンガーリオ1世 888-894 / グイード 889-894 / ランベルト 891-898 / アルノルフォ 894-899 / ラトルド (父と共治)896 / ベレンガーリオ1世 (復位)896-924 / ロドヴィコ3世 900-905 / ロドルフォ 922-926/33 / ウーゴ 926-947 / ロターリオ2世 945-950

アンスカリ朝

ベレンガーリオ2世 950-961 / アダルベルト (父と共治)950-961/3

ザクセン朝
アンスカリ朝

アルドゥイーノ 1002-1014(1004より対立王)

ザクセン朝
以後、神聖ローマ皇帝参照
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