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フリードリヒ・カール・フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フリードリヒ・カール・フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン
Friedrich Karl Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbüttel-Bevern
ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公
在位 1781年 - 1809年

出生 (1729年04月05日) 1729年 4月5日
ブラウンシュヴァイク
死去 (1809年04月27日) 1809年 4月27日(80歳没)
グリュックスブルク
配偶者 アンナ・カロリーネ・フォン・ナッサウ=ザールブリュッケン
家名 ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家
父親 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公エルンスト・フェルディナント
母親 エレオノーレ・シャルロッテ・フォン・ケトラー
役職 デンマーク=ノルウェー元帥
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グリュックスブルク城

フリードリヒ・カール・フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン(ドイツ語: Friedrich Karl Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbüttel-Bevern1729年 4月5日 - 1809年 4月27日)は、ヴェルフ家の一員、最後のブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公(在任:1781年 - 1809年)。デンマーク=ノルウェー元帥。

生涯

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ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=ベーヴェルン公エルンスト・フェルディナントとエレオノーレ・シャルロッテ・フォン・ケトラーの息子として生まれた。1742年に大尉としてオランダ軍に入隊した後、1745年と1746年の戦役に参戦した。その後はブラウンシュヴァイク軍に移り、神聖ローマ帝国軍にも志願兵として入隊した。伯父ルートヴィヒ・エルンスト・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (英語版)の指導でBoth'sche連隊を率いてオーストリア継承戦争を戦った。アーヘンの和約の後はオランダ軍に戻り、1754年には少将に昇進した。

七年戦争が勃発した後の1756年末にドレスデンに向かい、プロイセン王フリードリヒ2世からザクセンのプリンツ・クサーヴァー歩兵連隊の指揮を委ねられた。しかし、兵士たちが反乱を起こして逃げたため、フリードリヒ2世は彼に責任を問うた。1759年にプロイセン軍から去り、イギリス軍に入隊した。同年8月1日のミンデンの戦いでは従弟フェルディナントの下で戦った。続いてデンマーク軍に入隊、1761年に中将に、1762年に歩兵親衛隊の指揮官、1764年に歩兵軍総監に昇進した。1766年にレンツブルク知事、1773年にコペンハーゲン知事に任命された。

1781年、兄のアウグスト・ヴィルヘルムが死去したため、フリードリヒ・カール・ヴィルヘルムはブラウンシュヴァイク=ベーヴェルンを継承、ブラウンシュヴァイクにある2つの修道院の院長になった。1782年、元帥に昇進した。また、デンマーク王クリスチャン7世の許可を得てグリュックスブルク城 (英語版)に住居を移した。

1782年10月26日、ナッサウ=ザールブリュッケン侯ヴィルヘルム・ハインリヒの娘アンナ・カロリーネ(1751年 - 1824年)と結婚した。

1793年、首都ベーヴェルンで救貧基金を創設した。1806年にブラウンシュヴァイクがナポレオン・ボナパルトの軍勢に占領されると、フリードリヒ・カール・フェルディナントは逃亡してきたブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントの息子たちを受け入れた。

1809年、子供のないまま死去した。これに伴いブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公家が断絶、領地はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルが回収した。

脚注

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参考文献

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フリードリヒ・カール・フェルディナント

1729年 4月5日 - 1809年 4月27日

先代
アウグスト・ヴィルヘルム ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公
1781年 - 1809年 次代
フリードリヒ・ヴィルヘルム
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公として

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