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フアン・カルロス・アルテチェ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はアルテチェ第二姓(母方の)はゴメスです。
フアン・カルロス・アルテチェ
名前
本名 フアン・カルロス・アルテチェ・ゴメス
Juan Carlos Arteche Gómez
ラテン文字 Juan Carlos Arteche
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1957年04月11日) 1957年 4月11日(67歳)
出身地 マリアーニョ
没年月日 (2010年10月13日) 2010年 10月13日(53歳没)
身長 188cm
体重 84kg
選手情報
ポジション DF (CB)
利き足 右足
ユース
1974-1975 スペインの旗 ラシン・サンタンデール
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1975-1978 スペインの旗 ラシン・サンタンデール 48 (2)
1975-1976 スペインの旗 ジムナスティカ (loan) 25 (0)
1978-1989 スペインの旗 アトレティコ・マドリード 308 (18)
通算 381 (20)
代表歴
1986  スペイン U-23 1 (0)
1986-1987 スペインの旗 スペイン 4 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。
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フアン・カルロス・アルテチェ・ゴメス(Juan Carlos Arteche Gómez1957年 4月11日 - 2010年 10月13日)は、スペインマリアーニョ出身の元サッカー選手。ポジションはDFだった。

主にセンターバックとして活躍し、フィジカルの強さ、上背を活かした空中戦で当時のスペインを代表する選手だった[1] 。キャリアの大半をアトレティコ・マドリードで送り、公式戦400試合以上に出場した[2]

クラブ経歴

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学生時代には恵まれた体格からバスケットボールを薦められたが、サッカーを選択[3] 。17歳でラシン・サンタンデールとプロ契約を交わした。1975-76シーズンはジムナスティック・タラゴナへと貸し出され、若手選手として経験を積んだ。

ラシン・サンタンデール

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1976-77シーズン、当時1部に在籍していたラシン・サンタンデールに復帰した。翌1977-78シーズンは序盤戦から低迷し、リーグ最下位に転落するも、ともにユースから昇格してきたマルコス・アロンソキケ・セティエンらの活躍もありなんとか降格は免れた。アロンソとセティエンは後にアトレティコ・マドリードスペイン代表で同僚になる2人である。

アトレティコ・マドリード

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1978年、21歳でアトレティコ・マドリードへと移籍した。アトレティコ・マドリードは11シーズンもの間クラブの中心選手としてプレーし、キャリア後期にはキャプテンも務めた。1985年にはコパ・デル・レイスーペルコパ獲得に大きく貢献した。翌年にはUEFAカップウィナーズカップ決勝にたどり着いた試合で先発フル出場したが、FCディナモ・キーウに0-3で敗れている[4] 。アルテチェは、アトレティコ・デ・マドリードでリーグ戦に出場した試合数が308試合で、アデラルド・ロドリゲス(401)、トマス・レニョネス(367)、エンリケ・コリャル(338)に次ぐ史上4人目の選手である。

2010年10月13日、との長い闘病生活を経て死去した[5]

タイトル

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アトレティコ・マドリード

関連項目

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脚注

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外部リンク

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