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パン・アフリカ主義

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(2020年7月)
汎アフリカ旗。流した血の赤色、肌の黒色、大地の緑色からなる三色旗。独立を維持したエチオピアの国旗の赤・黄・緑を汎アフリカ色とすることもある

パン・アフリカ主義(パン・アフリカしゅぎ、Pan-Africanism)は、アフリカ大陸の住民及び、全世界に散らばったアフリカ系住民の解放及び連帯を訴えた思想。アフリカ諸国独立のきっかけとなり、アフリカ諸国連合アフリカ統一機構およびその後継機関のアフリカ連合を生み出す精神的母体となった。

概要

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汎アフリカ主義は「集団的自立」の必要性を強調する。 汎アフリカ主義は、政府および草の根の目的として存在する。 汎アフリカ主義の提唱者には、トゥーサン・ルーヴェルチュール、ジャン=ジャック・デサリンヌ、アンリ・クリストフ、フランソワ・デュヴァリエ、エメ・セゼール、ハイレ・セラシエ、ジョモ・ケニヤッタなどの指導者がいる、 エドワード・ウィルモット・ブライデン、ナムディ・アジキウェ、パトリス・ルムンバ、ジュリアス・ニエレレ、ロバート・ソブクウェ、アーメド・セクー・トゥーレ、クワメ・ンクルマ、ソブーザ2世、ロバート・ムガベ、トーマス・サンカラ、クワメ・トゥレ、Dr. ジョン・ポンベ・マグフリ博士、ムアンマル・カダフィ、ウォルター・ロドニー、ヨウェリ・カグタ・ムセベニ、ジョセフ・ロバート・ラブ、マーカス・ガーベイ、マルコムXなどの草の根運動家、W・E・B・デュボワ、アンテノール・フィルミンなどの学者、そしてディアスポラの人々である。 汎アフリカ主義者たちは、連帯することによって大陸がその潜在能力を発揮し、すべての人々に自立して食糧を供給することが可能になると信じている。 重要なことは、汎アフリカ同盟がアフリカの人々に世界的な力を与えるということである。

汎アフリカの目的が実現すれば、「アフリカにおける権力の強化」につながり、「世界的な資源の再配分を余儀なくされるだけでなく、より激しい心理的エネルギーと政治的主張が解き放たれ、...アメリカ大陸の社会的・政治的(権力的)構造を動揺させる」ことになる。

汎アフリカ主義の支持者、すなわち「汎アフリカ人」または「汎アフリカ主義者」は、しばしば社会主義的原則を唱え、大陸への外部の政治的・経済的関与に反対する傾向がある。

起源

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パン・アフリカ主義は19世紀末、アフリカ大陸から奴隷貿易で連れて来られたアフリカ人の子孫である、アメリカ合衆国及びカリブ海地域の黒人たちによって、自らのアイデンティティーを求める運動として始まった。

1900年トリニダード・トバゴ出身の弁護士ヘンリー・シルベスター・ウィリアムズパン・アフリカ会議ロンドンで開催。

その後一時停滞した後、W・E・B・デュボイス1919年にパン・アフリカ会議(第二次)をパリで開催。1921年1923年1927年にも立て続けに開催された。1935年、アフリカ最古の独立国・エチオピアイタリアに侵略されると(第二次エチオピア戦争)、欧米在住のアフリカ系住民からエチオピア支援の声が沸き起こり、パン・アフリカ主義は勢いを増していった。

最盛期

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1945年10月、第5回パン・アフリカ会議がマンチェスターで開催された。この会議では従来の欧米在住者に加え、クワメ・エンクルマジョモ・ケニヤッタなど、アフリカ大陸からの参加者が多数参加し、以後パン・アフリカ主義はアフリカ大陸に根付き、各植民地の独立運動の精神的支柱となっていった。

独立後

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独立時には、クワメ・エンクルマやギニアセク・トゥーレマリ共和国モディボ・ケイタなどがアフリカ諸国連合を結成するなどパン・アフリカ主義に基づくアフリカ合衆国構想を支持した指導者も多かったが、指導者間の足並みの乱れや各植民地の内情の違い、分離独立派の指導者も数多くいたことなどから、結局アフリカは50近い国々に分立することとなった。

1963年にアフリカの統一をめぐって対立したカサブランカ・グループとモンロビア・グループを仲裁したエチオピアのハイレ・セラシエ1世によってアフリカ統一機構(OAU)が成立したことはパン・アフリカ主義の勝利ではあったが、各国の協調は図られているとは言いがたく、また各国はそれぞれ苦難の道のりを歩んでおり、パン・アフリカ主義の理想にはまだ遠い。しかし、2002年にOAUの発展解消によりアフリカ連合(AU)が創設されるなど、パン・アフリカ主義は未だに影響力を持っている。

関連項目

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外部リンク

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