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パリス・ボルドーネ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パリス・ボルドーネ
Paris Bordone
パリス・ボルドーネの1525年から1530年頃の絵画
『ヴェネツィアの恋人たち』 ブレラ美術館所蔵
生誕 Paris Bordone
(1500年07月05日) 1500年 7月5日
ヴェネツィア共和国
トレヴィーゾ
死没 1571年 1月19日 (1571年01月19日)(70歳没)
ヴェネツィア共和国
ヴェネツィア
教育 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ
著名な実績 油彩画フレスコ画
(宗教画、神話画、肖像画)
代表作 『ドージェに聖マルコの指輪を献上する漁師』
運動・動向 ヴェネツィア派マニエリスム
影響を受けた
芸術家
ティツィアーノ・ヴェチェッリオジョルジョーネイル・ボルデノーネ (英語版)パルマ・イル・ヴェッキオ
『ドージェに聖マルコの指輪を献上する漁師』。1534年から1535年。アカデミア美術館所蔵。

パリス・ボルドーネ(: Paris Bordone, 1500年 7月5日(洗礼日)-1571年 1月19日 [1] )は、イタリアルネサンス期のヴェネツィア派の画家である。パリス・ボルドンとも表記される。主に宗教画、神話画、肖像画を描いた。その画風はマニエリスムの傾向を見せる。巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオの工房で学んだのち自立して、国際的に活躍し、一時的ではあったがヴェネツィア派の画家としては唯一フランス王国フランソワ1世に仕えた。

生涯

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パリス・ボルドーネはトレヴィーゾで生まれた。幼くして馬具職人の父を亡くしたボルドーネは母に連れられて10代でヴェネツィアに移住し、1516年頃にティツィアーノの工房に見習いとして入った[2] [3] 。しかし師弟の関係は不仲であった。ジョルジョ・ヴァザーリによるとティツィアーノはボルドーネを不遇したため、彼はティツィアーノに不満を抱き、ジョルジョーネの様式に傾倒していった[3] 。それから数年のうちにボルドーネは一人前の画家としての実力を身に着け、弱冠18歳で自立した。彼が初めて注文を得たときティツィアーノは嫉妬したと伝えられている[4] 。現在知られているボルドーネに支払われた最も古い報酬の記録は、1521年に制作したヴィチェンツァパラッツォ・デル・カピタニアート (英語版)フレスコ画である[3] 。ティツィアーノはその後もボルドーネに敵対的だったので、ヴェネツィアで顧客を得るのに苦労した。ヴァザーリによるとサンタ・ニコロ・アイ・フラーリ教会(The church of San Niccolò ai Frari)の主祭壇画は、当初はボルドーネに発注されたが、ティツィアーノが異を唱えたために撤回された。最終的にこの仕事を得たのはティツィアーノだったという[3] 。しかし、ボルドーネは1525年頃にイル・ボルデノーネ (英語版)パルマ・イル・ヴェッキオの影響を受けて自身の作風を模索した。そしてジョルジョーネやティツィアーノの影響から脱していき[5] 、1534年から1535年に聖マルコ同信会館 (英語版)のために制作した『ドージェに聖マルコの指輪を献上する漁師』(The Fisherman Presenting the Ring to Doge Gradenigo)で、ヴェネツィアでの評価を確かなものとした。やがてボルドーネは国際的な名声を獲得し、1538年にフランスのフランソワ1世に呼ばれてフォンテーヌブロー宮殿に赴き、1540年にはアウクスブルクの裕福な貴族フッガー家に招待された。さらにミラノでも仕事をし、ポーランドフランドルスペインからも注文を得た[3] 。1550年代後半以降はヴェネツィアに戻り、故郷のトレヴィーゾの教会のために祭壇画を多数制作した。彼は多くの財産を築き、4人の娘が結婚したときは200ドゥカート持参金を用意することができた。おそらくヴァザーリは晩年の画家に会うことができた。1571年、ボルドーネは熱病のためにヴェネツィアで亡くなった[3]

作品

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ボルドーネの初期の作品に見られるジョルジョネスクは完全にティツィアーノに由来するものである。ボルドーネはティツィアーノを緻密に模倣し、またしばしば自身の作品にサインを入れなかったため、ティツィアーノの作品がボルドーネのものとされたり、逆にボルドーネの作品がティツィアーノの作品とされることがあった。イタリア美術評論家 ジョヴァンニ・バティスタ・カヴァルカゼル (英語版)イギリス美術史家 ジョゼフ・アーチャー・クロウ (英語版)、およびドイツヴィルヘルム・フォン・ボーデ (英語版)はティツィアーノ作とされるカピトリーノ美術館の『キリストの洗礼』(Battesimo di Cristo)をボルドーネに帰属したが、ジョヴァンニ・モレッリはその中にティツィアーノの初期の作品を見た[2] 。またサンパウロ美術館のボルドーネの『アルヴィーゼ・コンタリーニの肖像』(Ritratto di Alvise Contarini)はティツィアーノの作品と考えられていた[4]

その後の様式は非常に個性的である。ボルドーネはヴェネツィア派の絵画とマニエリスムを組み合わせた独特の画風を構築し、ときに人物像を理想的な建築空間の中に置いた。ボルドーネはティツィアーノやティントレットの自由な筆致に倣うことはせず、慎重な計画のうえで細心の注意を払って描いている。神話を主題とする絵画はボルドーネのレパートリーの重要な部分を形成し、しばしば官能的である。力強く対照的な色彩を好み、しばしば筋肉質でねじれたポーズの男性像と、豪華な衣装をまとった女性像を描いた[3] 。女性像の衣装の描写はボルドーネの絵画の特徴の1つである。彼は襞の多い衣装の色彩をふるえるような色斑に分解することで、光の加減で見え方が変化する豪華な印象を生み出している[6] 。また肖像画家としても成功を収めた[3]

ボルドーネはヴィチェンツァでの室内装飾で重要な作品群を制作したが、第二次世界大戦時の爆撃で破壊されている。フランソワ1世の宮廷では多くの肖像画を描いたとされるが、その仕事の痕跡をフランス国内のコレクションに確認することはできない。現在、ルーヴル美術館に所蔵されている2点の肖像画は後になって購入されたものである[2] 。ボルドーネの最も重要な作品は聖マルコ同信会館のために制作され、現在ヴェネツィアのアカデミア美術館に所蔵されている『ドージェに聖マルコの指輪を献上する漁師』であり、ヴェネツィア派の最も重要な作品の1つと考えられている。他の重要な作品ではロンドンナショナル・ギャラリーの『ダフニスとクロエ』(Dafni e Cloe)および女性の肖像画、ベルリン絵画館の『2人のチェスプレイヤーの肖像』(Ritratto di due giocatori di scacchi)、ワシントンD.C.ナショナル・ギャラリーの『キリストの洗礼』(Battesimo di Cristo)などがある[2]

ギャラリー

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脚注

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  1. ^ "This Day in History: January 19". Italian Art Society. 2024年6月26日閲覧。
  2. ^ a b c d 1911年版『ブリタニカ百科事典』4巻。
  3. ^ a b c d e f g h "Paris Bordone". Cavallini to Veronese. 2024年6月26日閲覧。
  4. ^ a b "パリス・ボルドーネ". 徳島県立近代美術館公式サイト. 2020年4月30日閲覧。
  5. ^ 『イタリア・ルネサンス 都市と宮廷の文化』p.208。
  6. ^ 『ハプスブルク家の名画 ウィーン美術史美術館展』p.46。

参考文献

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外部リンク

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