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ニック・カール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、オーストラリアのサッカー選手について説明しています。その他の用法については「ニック・カール (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ニック・カール
名前
本名 ニコラス・アルバート・カール
Nicholas Alberto Carle
カタカナ ニック・カール
ラテン文字 Nick CARLE
基本情報
国籍 オーストラリアの旗 オーストラリア
 チリ
生年月日 (1981年11月23日) 1981年 11月23日(42歳)
出身地 シドニー
身長 174cm
選手情報
ポジション MF (OMF)
利き足 左足
ユース
オーストラリアの旗 ブラックタウン (英語版)
オーストラリアの旗 シドニー・O (英語版)
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1997-2002 オーストラリアの旗 シドニー・O 86 (12)
1997-2002 フランスの旗 トロワ 5 (0)
2003-2005 オーストラリアの旗 マーコーニ (英語版) 25 (6)
2005-2007 オーストラリアの旗 ニューカッスル・J 45 (7)
2007-2008 トルコの旗 ゲンチレルビルリイ 14 (1)
2008 イングランドの旗 ブリストル・C 17 (0)
2008-2010 イングランドの旗 クリスタル・パレス 59 (4)
2010-2015 オーストラリアの旗 シドニーFC 63 (8)
2012-2013 アラブ首長国連邦の旗 バニーヤース (loan) 21 (2)
代表歴2
1997  オーストラリア U-17 5 (7)
1998-2001  オーストラリア U-20 16 (9)
1998-2004  オーストラリア U-23 16 (2)
2004-2012 オーストラリアの旗 オーストラリア 13 (0)
監督歴
2016- オーストラリアの旗 シドニーFC(アカデミーコーチ)
1. 国内リーグ戦に限る。2017年4月16日現在。
2. 2012年12月15日現在。
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ニコラス・アルバート・"ニック"・カール(Nicholas Alberto "Nick" Carle, 1981年 11月23日 - )は、オーストラリアシドニー出身の元同国代表 サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはMF

経歴

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クラブ

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初期

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少年時代はフットサル選手としてプレーし、5つのタイトルを獲得するなど活躍。10代でサッカーに転向し、学校のクラブチームに所属。1996年にビル・ターナーカップで優勝した。

1997年10月5日、15歳の時にシドニー・オリンピックFCNSLデビュー。このマーコーニ・スタリオンズFC戦では、75分から出場するとアディショナルタイムにゴールを決め勝利に貢献した[1] フランストロワACに短期間在籍した後、母国に戻りマーコーニ・スタリオンズと契約を結んだ。

ニューカッスル・ジェッツ

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2005年、新たに創設されたAリーグに参加するニューカッスル・ユナイテッド・ジェッツFCへ加入。ここで在籍した2シーズンを攻撃的MFとしてプレーし、ファンから人気を博した。

2006-07シーズンのパフォーマンスが評価されたカールは、優勝チームのメルボルン・ヴィクトリーFCから選出されたダニエル・オールソップ (英語版)アーチー・トンプソン, ケヴィン・マスカットを押しのけ、レギュラーシーズン最優秀選手に与えられるジョニー・ウォーレン・メダル (英語版)を2007年2月に受賞[2] 。さらに、第10節のアデレード・ユナイテッドFC戦で相手が70メートルを駆け抜け、20メートルものアウトサイドから左足で決めた決勝ゴール(ちなみに、この数秒前にアデレードはPKを獲得するも失敗していた)が年間最優秀ゴールに選ばれた。また、マスカットを1票差で破り、母国のサッカーサイトが選ぶ最優秀選手にも選ばれた[3]

国外

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2007年、当初はフェネルバフチェSKが興味を示していたが、最終的にオーストラリア代表で同僚のヨシップ・スココがかつて在籍していたスュペル・リグゲンチレルビルリイSKへ移籍金65万ドル・3年契約で加入[4] するも家族がトルコでの生活に馴染めなかったため[5] [6] 、1年も経たずに退団した。

2008年1月初旬、国際親善試合のナイジェリア戦でのプレーが評価され[7] 、移籍金80万ドル・3年半契約でフットボールリーグ・チャンピオンシップブリストル・シティFCへ移籍[8] 。同年にチームはプレーオフ決勝の舞台ウェンブリー・スタジアムに駒を進め、カールも先発出場したが、ハル・シティAFCに0-1で敗れ惜しくも昇格を逃した[9]

アシュトン・ゲート・スタジアムでの滞在は半年未満と短く終わったものの、ウィガン・アスレティックFCへ去ったベン・ワトソンの後釜としてクリスタル・パレスFCと移籍金100万ポンド・4年契約を結んだ[10] ニール・ウォーノック (英語版)の下で移籍初年度はレギュラーとしてプレーしていたが、翌シーズンになるとベンチ暮らしが増えていき、監督がポール・ハート (英語版)に交代してもその状況は変わらずにいた。2010年5月、引退したスティーヴ・コリカの後釜を探していた母国のシドニーFCがオファー。まだ、2年契約が残っていたものの、チームは放出を決定した[11]

シドニーFC

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2010年5月、カールは移籍金195万オーストラリア・ドルでシドニーFCと3年契約を結んだ[12] 。移籍初年度は怪我に苦しみ、チームは下から3番目で終わるなど厳しいシーズンを過ごした。2011-12シーズン、2011年10月12日のアデレード戦で勝利を決定づけるゴールを決めるなど、前年に比べはるかに良いパフォーマンスを披露した。

UAEへローン

2012-13シーズン開幕前にUAEバニーヤースSCへ1年の期間で貸し出された[13] 。バニーヤースが買い取らない限り、2013-14シーズンに復帰する契約になっている。

現役引退

2014-15シーズン終了を以てクラブを退団し、2016年7月に現役を引退[14] 。半年間膝の負傷と闘った末の表明であった。引退後はクラブに戻り、アカデミー部門のコーチングスタッフとなることも併せて発表された。

代表

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U-17でキャリアを開始すると、U-20の時に2001 FIFAワールドユース選手権に出場した。また、U-23でもプレーしたがアテネオリンピックのメンバーには選ばれなかった。

2004年、ベネズエラ戦で84分にデイヴィッド・ズドリリッチに代わり出場し、A代表デビューをした。しかし、この試合以降はフランク・ファリーナ監督に呼ばれることはなく、フース・ヒディンクに交代しても同様だった。2006 FIFAワールドカップ後にグラハム・アーノルドが就任すると、2006-07シーズンのパフォーマスが認められ久しぶりに招集され、2007年3月の中国戦で途中出場し、3年ぶりにピッチに立った。また、同年6月のウルグアイ戦も出場した。

アーノルド監督にAFCアジアカップ2007のメンバーに選ばれると、グループリーグの出番はなかったものの、ベスト8の日本戦で後半から出場。PK戦ではキッカーを務め役目を果たすもチームは敗退した。

2007年11月18日、ロンドンクレイヴン・コテージで行われたナイジェリア戦で初先発し、デヴィッド・カーニーと共に出色の出来だった[15] ピム・ファーベークが監督に就任すると出場機会は限られ、2010 FIFAワールドカップの最初の30人のリストには掲載されたが、最終的にメンバーから漏れた[16]

タイトル

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脚注

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外部リンク

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NSL
Aリーグ
MVP - 得点王 - ベスト11(GK - DF - MF - FW)
 
オーストラリア代表 - 出場大会

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