トンブリ (海防戦艦)
トンブリ | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | 川崎造船所 |
運用者 | タイ海軍 |
級名 | トンブリ級海防戦艦 |
艦歴 | |
起工 | 1936年1月12日 |
進水 | 1938年1月31日[注釈 1] |
就役 | 1938年8月5日 |
退役 | 1941年9月26日 |
最期 | コーチャン島沖海戦で横転・擱坐。サルベージに成功したが[注釈 2] 、損傷が激しく係留状態で練習艦として利用された。 |
除籍 | 1959年6月19日 |
現況 | タイ海軍兵学校 (英語版)で艦橋と主砲が記念保存されている。 |
要目 | |
排水量 | 2,265トン |
全長 | 76.5m |
最大幅 | 14.4m |
吃水 | 4.2 |
機関 | 重油専焼MAN製ディーゼル機関2基2軸推進 |
速力 | 15.5ノット |
航続距離 | 12ノット/5,800海里 |
乗員 | 155名 |
兵装 |
三年式 20.3cm(50口径)連装砲2基 四〇口径四一式八糎平射砲4基 毘式四十粍機銃2基 ホ式十三粍高射機関砲 単装2丁 |
装甲 |
舷側:63mm(水線部) 甲板:25〜38mm(主甲板) 主砲塔:102mm バーベット:102mm(最厚部) 司令塔:102mm |
その他 | 英雄褒章 (英語版)[3] |
テンプレートを表示 |
トンブリ(タイ語: เรือหลวงธนบุรี、英語: HTMS Thonburi)はタイ王国海軍の海防戦艦。砲艦と見做されることもある[4] [注釈 3] 。トンブリ級海防戦艦の1番艦。英語ではDhonburiなどともされる。
設計
[編集 ]トンブリ級海防戦艦は1920年代にタイ海軍がラタナコシンドラ級砲艦の導入後に設計した。ラタナコシンドラ級は英国が建造した2砲塔の6インチ砲を持つ軽装甲の艦である。タイ海軍はプレーク・ピブーンソンクラームの指揮の下で近代化を試みた。海軍の優先目標は海岸線の防衛であり、沿岸砲艦は最適の方策と考えられた。いくつかの欧州系外国企業がさまざまな設計を提案したが、最終的に日本の川崎造船所が入札を獲得した。
基本的にラタナコシンドラ級の拡大版となっており、1936年に姉妹艦 (英語版)のスリ・アユタヤに先駆けて神戸の川崎造船所で起工し、1938年(昭和13年)1月31日に進水した[注釈 1] 。2,265トンの排水量、増加装甲による機関や砲塔の保護、MAN製ディーゼル機関2基を搭載し、当時のタイでは「戦艦」と呼ばれた。
兵装は三年式 20.3cm(50口径)連装砲2基であり、この砲は大日本帝国海軍の多段式空母だった初期の赤城や加賀に搭載されたものと同型であったとされる。主兵装は25度の仰角で最大射程24,000mであり、艦橋の上の塔には主砲の指向のための方位盤が存在した。追加兵装として3インチ高射砲4基、毘式四十粍機銃2基、13mm高射機関砲2丁などの武装が存在した。
1938年(昭和13年)9月11日に神戸港を出発[注釈 3] 、横浜港に寄港したあとタイに向かった[6] [注釈 4] 。 新型艦はタイ海軍によって手厚く迎え入れられた。更なる同型艦の購入も検討されたが、1938年にイタリアからエトナ級軽巡洋艦2隻を購入する事に決定した。しかし、建造が進められたエトナ級は1941年に戦時下にあったイタリア政府がタイ政府から購入し、タイに届く事は無く、トンブリ級はタイ海軍の最強艦として残った。
運用
[編集 ]トンブリ級の両艦は欧州で第2次世界大戦が勃発した後に就役した。
1940年(昭和15年)11月23日に泰・仏印国境紛争が発生。トンブリなどからなる第3戦隊は1941年(昭和16年)1月17日にコーチャン島付近で軽巡洋艦ラモット・ピケなどからなるヴィシー陣営側のフランス艦隊と交戦した[8] (コーチャン島沖海戦)。トンブリは被弾炎上。さらに海戦後にタイ軍機による誤爆でも被害を受けている。トンブリは同日午後にコーチャン島と本土との間の浅瀬で転覆した。
タイの依頼で川崎重工がトンブリを浮揚、離礁作業を行った。5月になり日本サルヴェージがサルベージを開始、8月28日に浮揚成功、曳航してサッタヒープ軍港に到着した[注釈 5] 。修理が試みられたが、戦闘艦として復帰することは無かった。係留状態で練習艦として使用され、1959年の退役まで利用された。
艦橋の一部と主砲塔がサムットプラーカーン県のタイ海軍兵学校 (英語版)で記念に保存されている。
出典
[編集 ]注釈
[編集 ]- ^ a b シャムの砲艦進水 川崎造船所で[1] (神戸三十一日本社特電)川崎造船所で建造中のシャム國砲艦アュデュア號の姉妹艦トンブリ―號(二二六五トン)の晴れの進水式は三十一日朝同造船所で華々しく擧行された、性能は左の如し 長さ七十五米、幅十三米四一〇、喫水四米二一五、排水量二二六五噸、速力一五〇五ノツト(記事おわり)
- ^ (記事中略)[2] 又同船では泰國軍艦ドンブリ號(二三〇〇噸)をザルベーヂ日本の威力にかけて浮揚に成功して來た日本サルベーヂ技師高尾八郎等が歸朝したが高尾技師は次の如く語つた ドンブリ號はコーチャン島と泰佛印國境の殆ど間の海上で沈んだものです、我々八十人は本年五月から日本サルベーヂの三保丸を足場にして作業を開始し去る七月十六日全成に浮揚に成功目下修理中です(記事おわり)
- ^ a b 川崎が建造のシャム砲艦 歸還の途へ[5] (神戸十一日同盟)川崎造船所で建造されたシャム國海軍砲艦トンブリ―號(二二六五トン)は十一日朝神戸港より盛大な歡送裡に横濱経由本國へ晴れの歸還の途についた(記事おわり)
- ^ シャム砲艦 横濱に廻航[7] 【横濱十三日發國通】川崎造船所で建造された友邦シャムの砲艦トンブリ―號(二千二百六十五噸)は、十二日神戸から横濱に廻航した、一週間碇泊乗組員は各地見學の上十八日抜錨バンコツクに向ふ豫定(記事おわり)
- ^ 泰艦引揚に成功[9] 【バンコツク十二日發】シャム灣に沈没した泰國軍艦ドンブリ號(二二〇〇噸)ノ引上げ作業は去る五月中旬より日本サルベイジ延田技師以下が懸命の努力を續けて來たが遂に去る八月二十八日其の浮揚作業に成功、九月三日無事スタヒブ軍港に曳航茲に三ヶ月間に亘る苦闘は見事實を結び海國日本のために萬丈の氣を吐いた。(記事おわり)
脚注
[編集 ]- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1938年02月01日 新世界朝日新聞/nws_19380201(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022233800 p.3
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Hawai Mainichi, 1941年10月1日、p.2、2023年5月14日閲覧
- ^ "แจ้งความสํานักนายกรัฐมนตรี เรื่อง พระราชทานเหรียญกล้าหาญ. 26 สิงหาคม 2484" ราชกิจจานุเบกษา. 58 (2 กันยายน 2484) : 2810-2811.
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Nippaku Shinbun, 1938年02月02日、p.1、2023年5月14日閲覧 シャム砲艦 川崎造船所で進水【神戸三十一日同盟】
- ^ 「Shin Sekai Asahi Shinbun 1938年09月12日 新世界朝日新聞/nws_19380912(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022277800 p.3
- ^ 「昭和13年 海軍公報(部内限)下巻(防衛省防衛研究所)9月(1) 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070375100 p.35〔 海軍公報(部内限)第三千七號号 昭和13年9月7日(水)/○しろまる暹羅國砲艦「トンブリ」行動豫定 地名 着 發/神戸(空欄)九月十一日 横濱 九月十二日 十八日/備考 同艦ハ本國ヘ廻航ノ途次横濱ニ非公式寄港スルモノニシテ禮砲不施行ノモノナリ 〕
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Manshū Nichinichi Shinbun, 1938年09月14日、p.2、2023年5月14日閲覧
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Manshū Nichinichi Shinbun, 1941年01月22日、p.1、2023年5月14日閲覧 泰、佛印海戰兩軍の損害【河内二十一日發】
- ^ Hoji Shinbun Digital Collection、Hawai Mainichi, 1941年09月12日、p.8、2023年5月14日閲覧
参考図書
[編集 ]- Vincent P. O'Hara, The Royal Navy's Revenge and Other Little-Known Encounters of the War at Sea, Nimble Books, 2013 (Kindle版)
この項目は、軍艦に関連した書きかけの項目 です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:軍事・PJ軍事・PJ船)。