チャーマ・ラージャ11世
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チャーマ・ラージャ11世 Chama Raja XI | |
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マイソール藩王 | |
チャーマ・ラージャ11世 | |
在位 | 1940年 - 1947年 |
戴冠式 | 1940年 8月29日 |
別号 | マハーラージャ |
全名 | ジャヤ・チャーマ・ラージェーンドラ |
出生 |
1919年 7月8日 マイソール、マイソール宮殿 |
死去 |
1974年 9月23日 バンガロール、バンガロール宮殿 |
子女 | 1人の息子と5人の娘 |
王朝 | オデヤ朝 |
父親 |
カンティーラヴァ・ナラシンハ・ラージャ クリシュナ・ラージャ4世(養父) |
宗教 | ヒンドゥー教 |
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チャーマ・ラージャ11世(カンナダ語:ಜಯಚಾಮರಾಜ ಒಡೆಯರ್, Chama Raja XI, 1919年 7月8日 - 1974年 9月23日)は、南インドのカルナータカ地方、マイソール藩王国の君主(在位:1940年 - 1947年)。ジャヤ・チャーマ・ラージェーンドラ(Jaya Chama Rajendra)の名でも知られる。
生涯
[編集 ]1940年 3月11日、父でありマイソール藩王国王太子であったカンティーラヴァ・ナラシンハ・ラージャが死亡し、伯父で藩王クリシュナ・ラージャ4世の養子となって王太子となった[1] 。
同年8月3日、クリシュナ・ラージャ4世も後を追うように死亡し、チャーマ・ラージャがチャーマ・ラージャ11世が藩王位を継承した[1] 。
1947年 8月15日、インド・パキスタン分離独立時、マイソール藩王国はインドへと帰属することとなった[1] 。これにより、実に500年に及ぶ歴史を持つマイソールの王朝は終わりを告げた。
とはいえ、実際に藩王国が併合され、チャーマ・ラージャ11世がその主権を失ったのは1950年 1月26日のことである[1] 。併合後、同州を中心とした地域はマイソール州となり、彼は同州の藩王知事(ラージ・プラムク)に任命され、1956年 10月31日までその地位にあった[1] 。
藩王知事が廃止されたのち、同年11月1日から1964年 5月3日まではマイソール州知事、5月4日から1966年 6月25日まではマドラス州知事であった[1] 。
知事退任後、1974年 9月23日にチャーマ・ラージャ11世はバンガロールのバンガロール宮殿で死亡した[1] 。
ギャラリー
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チャーマ・ラージャ11世
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チャーマ・ラージャ11世と祖母
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チャーマ・ラージャ11世と妃
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チャーマ・ラージャ11世とヴァッラブバーイー・パテール
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チャーマ・ラージャ11世とイギリス女王エリザベス2世
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チャーマ・ラージャ11世像(ラール・バーグ)
出典・脚注
[編集 ]関連項目
[編集 ]ウィキメディア・コモンズには、チャーマ・ラージャ11世 に関連するカテゴリがあります。
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