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ダビッド・モルレー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ダビッド・モルレー
David Murray
生誕 (1830年10月15日) 1830年 10月15日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州 デラウェア郡ボバイナ
死没 (1905年03月06日) 1905年 3月6日(74歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニュージャージー州 ミドルセックス郡 ニュー・ブランズウィック
墓地 エルムウッド墓地(ニュー・ブランズウィック)
出身校 ユニオン・カレッジ
職業 教育者教育行政官
配偶者 マーサ・ニールソン・モルレー
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ダビッド・モルレー(David Murray [ˈdeɪvɪd ˈmʌri]1830年 10月15日 - 1905年 3月6日)は、アメリカ合衆国教育者教育行政官。オルバニー・アカデミー校長、ラトガース・カレッジ教授、日本国学監、ニューヨーク州大学校理事会事務局長を歴任した。

明治初期に日本政府が招聘したお雇い外国人の一人であり、1873年(明治6年)から1878年(明治11年)まで文部省顧問として教育制度の整備に貢献。東京大学東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)および同校附属幼稚園、教育博物館(国立科学博物館の前身)、東京学士会院(日本学士院の前身)の設立を助けたほか、中央集権的な「学制」改正案をまとめた。

ダビット・モルレーデイビッド・マレーなどとも表記される。

来歴

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1830年10月15日、ニューヨーク州 デラウェア郡 ボバイナ (英語版)に生まれる。両親はスピガ山のふもとで農業を営むスコットランド移民であり、ダビッドには5人の兄姉、2人の妹がいた[1] デルハイ (英語版)デラウェア・アカデミー (英語版)ダベンポート (英語版)のファーグソンビル・アカデミーを経てスケネクタディユニオン・カレッジに編入学し、優秀な成績で卒業[2] 。カレッジ在学中には、「批判学」の講義を担当した学長エリファレット・ノット (英語版)から強い影響を受けている[3]

カレッジを卒業した1852年、州都オルバニーにあるオルバニー・アカデミー (英語版)の校長ジョージ・クック (英語版)に招かれて同アカデミーの講師となり、翌年に教授となった[4] 1857年には校長に就任し、生徒数の減少によって経営危機に直面していたアカデミーの改革を推進。成績管理制度、学年別クラス制度、卒業証書授与制度の導入などによって教育水準の向上につとめ、生徒数を増加させることに成功した[5]

1863年7月、ニュージャージー州 ニュー・ブランズウィックラトガース・カレッジ教授となっていたジョージ・クックに再び招かれ、ラトガース・カレッジの数学自然哲学の教授に就任[6] 。就任後、モルレーはクックとともにモリル法適用によるラトガース・カレッジ科学校設立を計画し、1865年に開校を実現させたほか、口頭試問に代わる全校一斉筆記試験および科目選択制の導入を推進した[7] 。1863年にはニューヨーク州大学校から哲学博士号を取得し、さらに1873年にラトガース・カレッジ、1874年にユニオン・カレッジからそれぞれ法学博士 (英語版)号を取得。またこの間、ジョン・ニールソン博士の養女マーサ・A・ニールソンと結婚している[8]

なお、ラトガース・カレッジでは幕末以来多数の日本人留学生が学んでおり、1866年頃には付設のグラマー・スクールを含めると40名以上の日本人が在学していた。モルレーは彼らに関心を持ち、自宅に招いてもてなしたという。交流のあった学生の中には杉浦弘蔵(畠山義成)、平山太郎勝小鹿、旭小太郎(岩倉具定)がいた[9] 1872年には、ワシントン駐在の日本国外交官森有礼が学長ウイリアム・キャンベル (英語版)に寄せた教育問題に関する質問状への回答を依頼され、長文の回答書を執筆した[10] 。これが目にとまり、教育調査とともに教育顧問招聘の任務を帯びて訪米していた岩倉使節団の副使木戸孝允と理事官田中不二麿はモルレーの招聘を検討[11] 。報酬月額600ドル、3年間の予定で契約が交わされることになった(なお、報酬を月額700ドルに増額し雇用期間を2年6か月延長するという新契約が1875年に交わされ、翌1876年にはラトガース・カレッジに辞表が提出された)[12]

モルレーは夫人とともに1873年(明治6年)6月に来日した[13] 。はじめは学校督務兼開成学校教頭、1874年(明治7年)10月からは学監として諸般の教育事務に対する助言・建言を行い、空席の文部卿に代わって省務を統括していた文部官僚田中不二麿を助けた[14] 東京大学東京女子師範学校および同校附属幼稚園教育博物館東京学士会院の設立や官立諸学校の教則制定・改正はモルレーの協力によって実現したと言われている[15] 。1874年12月の金星日面通過に際して各国から観測隊が来日するにあたっては、文部省に対し観測の意義を解説するとともに観測隊への協力を要請し、自らも長崎に赴きダビッドソン率いる米国観測隊に参加した[16] 1875年(明治8年)10月には、翌年5月から11月まで開催されるフィラデルフィア万国博覧会での教育情報収集と、教育博物館設立に必要な諸物品等購入のため米国出張を命じられ、ただちに渡米。日本政府の意を受けて下関賠償金返還を求めるロビー活動を行い、合衆国議会外交委員会にも出席し意見を述べている[17] 。博覧会会期中には各国の展示を視察したほか、博覧会に合わせて開催されていた三つの国際教育会議に出席し、諸外国の教育家との交流を通じて各国の教育制度に関する知識を深めた。教育会議を含む博覧会の報告書は『慕邇矣禀報』として文部省から出版された[18] 1876年(明治9年)12月に日本に戻ってからは、「学制」改正の参考資料とするための改正案作成に従事し、「学監考案 日本教育法」「学監考案 日本教育法説明書」をまとめた[19] 。この改正案は、全国の教育を標準化するために公立小中学校の教則、府県学校監督官、教員免許、学位、教科書などに対する管理権限を文部省に認めるという、「学制」よりも中央集権的なもので、1879年(明治12年)に制定された教育令にはほとんど反映されなかったが、翌年公布された改正教育令に強い影響を与えた[20] 1878年(明治11年)12月に契約満期を迎えたモルレーは翌年1月に日本を発ち、エジプト、ヨーロッパを巡って米国に帰国した[21]

帰国後は、1880年1月にニューヨーク州の中等高等教育行政機関であるニューヨーク州大学校 (英語版)の理事会事務局長に就任[22] 。中等教育機関への州の補助金配分の基準となる、一定水準の学力を持った学生数を割り出すためのリージェント試験 (英語版)制度の拡充や、中等教育機関の教育内容の標準化・画一化をすすめる指導・助言、教員養成に対する査察の強化を行い、中央集権的な学校管理を押し進めた[23] 1886年髄膜炎の発作で倒れ、長期休養を経て翌年1月に復職したが、全快に至ることなく1889年7月に辞職[24] 。1882年から務めていたユニオン・カレッジ評議委員も退き、ニュー・ブランズウィックに移り住んだ[25]

晩年は文筆と講演に力を注いだほか、ラトガース・カレッジ評議委員、ジョン・ウェルス記念病院 (英語版)会計局長、ニュー・ブランズウィック神学校 (英語版)特別委員会事務長を務めた。1905年3月6日、74歳で死去し、ニュー・ブランズウィックのエルムウッド墓地 (英語版)に葬られた[26] 。没後、東京帝国大学はモルレー夫人より1000ドルの寄附を受け、モルレー博士紀念数学賞を創設している[27] 。モルレー夫妻には子がなかった。1929年に夫人が死去した際、遺産は分割して親類と各機関に譲渡され、ラトガース・カレッジとユニオン・カレッジには夫妻の遺志によってダビッド・モルレー奨学金が創設された[28]

著作

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英語

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著書
編書

日本語訳

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脚注

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  1. ^ 吉家、23-28頁。
  2. ^ 吉家、34-37頁、45-47頁。
  3. ^ 吉家、43頁。
  4. ^ 吉家、47頁。羽田(1986)、80頁。
  5. ^ 吉家、49-51頁。
  6. ^ 吉家、51-52頁、54-55頁。
  7. ^ 吉家、57-58頁。
  8. ^ 赤羽・島、74頁。
  9. ^ 吉家、54頁、75頁、80-82頁。
  10. ^ 吉家、67頁、74-75頁。
  11. ^ 吉家、92-94頁。
  12. ^ 吉家、98頁、164-165頁。
  13. ^ 吉家、113-114頁。
  14. ^ 「文部省御傭米国人博士ダヒツトモルレー氏叙勲」 4コマ。吉家、136-138頁。
  15. ^ 吉家、3頁、229頁。
  16. ^ 斎藤国治、篠沢志津代 「金星の日面経過について、特に明治7年(1874)12月9日日本における観測についての調査」(『東京天文台報』第16巻第1冊、1972年6月)134-136頁。佐藤利、705頁。
  17. ^ 吉家、161-165頁。
  18. ^ 吉家、161頁、181頁。
  19. ^ 吉家、196頁。
  20. ^ 吉家、202-203頁、211頁、231頁。
  21. ^ 吉家、227頁。
  22. ^ 吉家、254頁。
  23. ^ 吉家、281 頁。
  24. ^ 吉家、282頁。
  25. ^ 赤羽・島、84頁。
  26. ^ 吉家、283-285頁。赤羽・島、113-115頁。
  27. ^ 永井威三郎著 『風樹の年輪』 現代俳句社、1968年10月、100頁。
  28. ^ 吉家、383-384頁。

参考文献

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関連文献

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外部リンク

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