ダニイル・ヴォルコヴィチ
ダニイル・イヴァノヴィチ・ヴォルコヴィチ Даниил Иванович Волкович Даніла Іванавіч Валковіч | |
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生年月日 | (1900年04月18日) 1900年 4月18日 |
出生地 | ロシア帝国の旗 ロシア帝国 グロドノ県 グロドノ郡 (ロシア語版)ザネマンスク (タラシケヴィツァ版) |
没年月日 | (1937年11月26日) 1937年 11月26日(37歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
出身校 | 白ロシア国立大学 (ロシア語版)労働者学部 (ロシア語版) |
前職 | 軍人 |
所属政党 | ボリシェヴィキ |
サイン | [[File:{{{signature}}}|128px]] |
在任期間 | 1937年1月25日 - 3月14日 |
在任期間 | 1934年8月3日 - 1937年6月10日 |
在任期間 | 1937年5月30日 - 9月 |
中央執行委員会議長 |
アレクサンドル・チェルヴャコフ ミハイル・スタクン [1] |
在任期間 | 1934年2月 - 8月 |
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ダニイル(ダニラ)・イヴァノヴィチ・ヴォルコヴィチ(ロシア語: Даниил (Данила) Иванович Волкович、1900年 4月18日 - 1937年 11月26日)、民族名ダニラ・イヴァナヴィチ・ヴァルコヴィチ(ベラルーシ語: Даніла Іванавіч Валковіч)は、ベラルーシ人のボリシェヴィキ。
生涯
[編集 ]1900年4月18日に、ロシア帝国 グロドノ県 ザネマンスク (タラシケヴィツァ版)で生まれた[2] ベラルーシ人 [3] 。第一次世界大戦時は中等学校を中退して[4] ヴャトカ県 (ロシア語版)に疎開した[5] 。1918年にボリシェヴィキに入党し、同年4月から1921年まで赤軍に従軍[2] 。イジェフスク兵器工場での社会革命党の反乱鎮圧や東部戦線 (ru) でのアレクサンドル・コルチャーク軍との戦いに参加し、1920年4月からは西部戦線 (ロシア語版)に移り小隊を指揮してボブルイスク郡 (ロシア語版)とモズィリ郡 (ru) で匪賊と戦った[6] 。同時期にはヴャトカ県マルムィシュ (ロシア語版)郡 (ru) チェーカー副議長およびボリシェヴィキの郡委員会責任書記も務めている[2] 。
翌1921年から白ロシア・コムソモール中央委部長となり、1924年から1926年まで白ロシア共産党 (ロシア語版)のミンスク管区 (ru) コイダノフ地区 (ロシア語版)委責任書記を務めた[2] 。この時にヴォルコヴィチは識字率の向上に注力し、そして地区の識字率を白ロシア社会主義ソビエト共和国内で最高のものへと引き上げた[6] 。この頃に自身も白ロシア国立大学 (ロシア語版)労働者学部 (ロシア語版)で学び、ここで未来の妻とも出会った[6] 。その後、1926年から1930年8月まで白ロシア共産党のミンスク市リャヒ地区委責任書記、ミンスク管区委部長、モギリョフ管区 (ru) 委責任書記を歴任[2] 。同月から1934年2月までもクリモヴィチ地区 (ロシア語版)委責任書記とボブルイスク地区 (ロシア語版)委第一書記を務めた[2] 。
1934年2月から8月までは白ロシア共和国農業副人民委員 (be)、同月3日からは白ロシア共産党中央委 (be) 第二書記を務めていたが[2] 、中央委第一書記であったニコライ・ギカロが突如ハリコフへ召喚されたことに伴い、1937年1月25日から3月14日まで第一書記を代行[6] 。その後同年6月10日まで第二書記を務めた[2] 。1934年8月3日から1937年までは中央委局メンバーでもあり、同年5月30日から9月までは白ロシア共和国人民委員会議議長 (ベラルーシ語版)であった[2] 。しかし9月にソビエト連邦重工業人民委員部 (ru) の緊急会議のためモスクワに召喚されたところ[6] 、同月5日に逮捕された[2] 。そのままブトゥイルカ監獄 (ロシア語版)に投獄され[6] 、反革命組織への参加・テロ・スパイ・破壊行為を理由として連邦最高裁軍事参議会 (ロシア語版)によって11月26日に死刑判決を下され、同日処刑された[3] 。
その後、ヴォルコヴィチは新ドン墓地 (ロシア語版)に葬られていたが、1956年4月に名誉回復 (ロシア語版)がなされた[3] 。妻も1937年9月に逮捕され8年の重労働刑を言い渡されたが、1945年にモルドヴィア自治共和国の収容所から釈放された[5] 。ヴォルコヴィチの名はフロドナの橋や通りに残されている[5] 。
脚注
[編集 ]- ^ "Высшие органы государственной власти Белорусской ССР". Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2017年4月9日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j "Волкович Даниил Иванович". Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年9月7日閲覧。
- ^ a b c "Волкович Даниил Иванович". Сахаровский центр (英語版). 2016年9月7日閲覧。
- ^ Кот В. (2009年3月19日). "Трагічны лёс Данілы Валковіча". Гродзенская праўда. http://grodnonews.by/category/fotosessiya-sobytiy/news470.html 2016年9月7日閲覧。
- ^ a b c Маракоў Л. У. (2004). "ВАЛКОВІЧ Даніла Іванавіч". Рэпрэсаваныя лiтаратары, навукоўцы, работнiкi асветы, грамадскiя i культурныя дзеячы Беларусi. 1794-1991. Энцыклапедычны даведнік. Vol. III. Кнiга I. Мн.: Абрамовіч—Кушаль.
- ^ a b c d e f Иоффе Э. Г. (ロシア語版) (2007年8月15日). "Две короткие биографии". Советская Белоруссия (ロシア語版). http://www.sb.by/obshchestvo/article/dve-korotkie-biografii.html 2016年9月7日閲覧。
党職 | ||
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先代 ニコライ・ギカロ |
白ロシア共産党(ボ)中央委員会第一書記 代行 1937年1月25日 - 3月14日 |
次代 ヴァシリー・シャランゴヴィチ |
先代 ヴァシリー・シャランゴヴィチ |
白ロシア共産党(ボ)中央委員会第二書記 1934年8月3日 - 1937年6月10日 |
次代 ニコライ・デニスケヴィチ |
先代 アレクサンドル・チェルヌシェヴィチ |
白ロシア共産党(ボ)モギリョフ管区委員会責任書記 1930年 - 1930年8月 |
次代 なし |
公職 | ||
先代 ニコライ・ゴロデド (ロシア語版) |
人民委員会議 1937年5月30日 - 9月 |
次代 アファナシー・コヴァリョフ (ロシア語版) |