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コンスタンティン・スミルノフ

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コンスタンティン・ニコラエヴィチ・スミルノフ
Константин Николаевич Смирнов
コンスタンティン・スミルノフ
渾名 七人の悪魔
生誕 (1854年05月19日) 1854年 5月19日
ロシア帝国 オデッサ
死没 1930年 11月9日 (1930年11月09日)
ユーゴスラビア王国の旗 ユーゴスラビア王国 パンチェヴォ
所属組織 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
最終階級 陸軍 中将
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コンスタンティン・ニコラエヴィチ・スミルノフ(Константин Николаевич Смирнов, Konstantin Nikolaevich Smirnov)は、ロシア帝国陸軍軍人。日露戦争時、陸軍中将だった。

経歴

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ミンスク出身の小貴族の家にオデッサで生まれ、ミハイロフスキー砲兵学校 (ロシア語版英語版)ニコライ参謀本部アカデミー (ロシア語版英語版)を卒業した。戦術家として頭角を現し、1877年露土戦争で武勲を上げ「七人の悪魔」の異名をとったという[1] 1896年から1898年までオデッサ歩兵士官学校長を、1899年にはワルシャワ要塞の参謀長を歴任した。1900年、歩兵第2旅団を指揮するため極東に移った[2]

日露戦争が始まると、1904年 5月3日、5万人以上の兵を擁する旅順要塞の司令官に任命された。1897年のロシアによる占領以来、旅順の防備は大強化されて近代化が進んでおり、世界で最も堅固な要塞の一つであると考えられていた。しかし前司令官であるアナトーリイ・ステッセリは命令を曲解し、スミルノフは自分の指揮下にあるして旅順に居残り、スミルノフの命令を取り消したり軍需品や援軍の要求を拒否し、さらに皇帝ニコライ2世にスミルノフを讒言する電報を送ったりした。ステッセリは7月3日駆逐艦で旅順を退去するようにというロシア満州軍 (ロシア語版)総司令官アレクセイ・クロパトキンの命令も無視した[2] 。ステッセリの旅順防衛指揮は拙く、結局旅順はスミルノフ始め多くの将校に諮られることなく、ステッセリとその派閥のアレクサンドル・フォークによって1905年 1月1日に日本軍に降伏した。

軍法会議におけるスミルノフ(左端)

終戦後、ステッセリやフォークらの臆病と職務怠慢を告発する非難文を発表した。また1908年 2月7日に開かれた軍法会議では彼らを死刑にするように主張した[2] が、結局懲役10年に減刑された。これらの言動によってフォークに恨まれて決闘を挑まれ、腹部を負傷した。

十月革命の後、ユーゴスラビアへ移住し、最後はセルビアパンチェヴォにて肺炎で死去した。

栄典

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  • 聖スタニスラーフ勲章第1等級:1904年4月8日
  • 聖アンナ勲章第1等級:1904年10月24日
  • 聖ヴラディーミル勲章第2等級:1904年10月24日

参考文献

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  1. ^ 柘植「コンスタンティン・スミルノフ陸軍中将」
  2. ^ a b c Kowner, Historical Dictionary of the Russo-Japanese War, p. 359-360.

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