クアン・アパイウォン
クアン・アパイウォン ควง อภัยวงศ์ | |
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生年月日 | 1902年 5月17日 |
出生地 | シャム カンボジア バタンバン州 |
没年月日 | (1968年03月15日) 1968年 3月15日(65歳没) |
死没地 | タイ王国の旗 タイ王国 バンコク |
出身校 | リヨン大学電気工学部 |
所属政党 |
(人民党→) 民主党 |
サイン | |
在任期間 | 1944年 8月1日 - 1945年 8月31日 |
国王 | ラーマ8世 |
タイ王国の旗 第7代 タイ王国首相 | |
在任期間 | 1946年 1月31日 - 1946年3月24日 |
国王 | ラーマ8世 |
タイ王国の旗 第10代 タイ王国首相 | |
在任期間 | 1947年 11月10日 - 1948年 4月8日 |
国王 | ラーマ9世 |
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クアン・アパイウォン(タイ:ควง อภัยวงศ์、1902年 5月17日 - 1968年 3月15日)は、タイ王国の政治家。1940年代に3度にわたって首相を務めた。
経歴
[編集 ]バタンバン(現・カンボジア領)の名家に生まれる。1924年にフランス リヨン大学電気工学部を卒業し、帰国後の1928年に郵便電信局の電信技師となる。
1932年のタイ立憲革命に参加して翌年に官選国会議員となる。人民党文官派指導者の一人とみなされて要職を歴任した。日本と結んでいたプレーク・ピブーンソンクラーム(ビブン)首相が失脚した第2次世界大戦末期から終結直後にかけての1944年 8月1日-1945年 8月31日・1946年 1月31日-同年3月24日の2度にわたって首相を務め、複数の閣僚を兼務した。この間の1946年1月に結成された民主党に参加して総裁となって民選国会議員にも選ばれている。
1947年 11月8日、タイ・クーデター (英語版)によってタワン・タムロンナーワーサワットが辞職し、クアンは3度目の首相(1947年 11月10日-1948年 4月8日)に擁立された。ピブーンソンクラームが政界に復帰すると、翌1948年4月にビブン元首相を支持する軍部の圧力によってアパイウォンは政権を追われた。この政変によりタイはビブンによる軍事政権となった(ピブーンの返り咲き)。
アパイウォンは民主党総裁として民主主義を擁護して軍事政権と争ったが、軍事政権や軍部も人望のある彼との全面対決を避けた。1958年のクーデターで独裁を敷いたサリット・タナラット元帥も1959年にアパイウォンを通信審議会議長に任命して彼の懐柔を図っている。日本との関係も深く、1961年に来日している。
参考文献
[編集 ]- 河部利夫「クアン・アパイウォン」(『国史大辞典 4』(吉川弘文館、1984年) ISBN 978-4-642-005043)
関連項目
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ラーマ7世時代 | ||
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ラーマ8世時代 | ||
ラーマ9世時代 | タワン・タムロンナーワーサワット / クアン・アパイウォン / プレーク・ピブーンソンクラーム / ポット・サーラシン / タノーム・キッティカチョーン / サリット・タナラット / タノーム・キッティカチョーン / サンヤー・タンマサック / セーニー・プラーモート / ククリット・プラーモート / セーニー・プラーモート / ターニン・クライウィチエン (英語版) / クリエンサック・チョマナン (英語版) / プレーム・ティンスーラーノン / チャートチャーイ・チュンハワン / アナン・パンヤーラチュン / スチンダー・クラープラユーン / ミーチャイ・ルチュパン (英語版) (*) / アナン・パンヤーラチュン / チュワン・リークパイ / バンハーン・シラパアーチャー / チャワリット・ヨンチャイユット / チュワン・リークパイ / タクシン・シナワット / ソンティ・ブンヤラットカリン (*) / スラユット・チュラーノン / サマック・スントラウェート / ソムチャーイ・ウォンサワット / チャワラット・チャーンウィーラクーン (英語版) (*) / アピシット・ウェーチャチーワ / インラック・シナワット / ニワットタムロン・ブンソンパイサン(*) / プラユット・チャンオチャ | |
ラーマ10世時代 | プラユット・チャンオチャ / プラウィット・ウォンスワン(*) / セター・タウィーシン / プームタム・ウェーチャヤチャイ(*) / ペートンターン・シナワット | |
(*)は代行もしくは暫定。 カテゴリ カテゴリ |