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ガイウス・ウィビウス・パンサ・カエトロニアヌス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ガイウス・ウィビウス・パンサ・カエトロニアヌス
C. Vibius C. f. C. n. Pansa Caetronianus
出生 不明
生地 ローマ
死没 紀元前43年
死没地 ボノニア
出身階級 プレブス
氏族 ウィビウス氏族
官職 護民官 (紀元前51年)
鳥占官 (紀元前48年ごろ-43年)
法務官?(紀元前48年)
執政官代理 (紀元前45年)
執政官 (紀元前43年)
担当属州 ガリア・キサルピナ (紀元前45年)
指揮した戦争 解放者の内戦
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ガイウス・ウィビウス・パンサ・カエトロニアヌス(ラテン語: Gaius Vibius Pansa Caetronianus, ? - 紀元前43年)は、共和政末期ローマの元老院議員、執政官

生涯

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幼少の頃は分かっていない。経歴は紀元前51年護民官を勤め、ローマ内戦ではガイウス・ユリウス・カエサル派として元老院派と戦った。カエサルの暗殺 (英語版)後は共和政ローマの指導的立場となり、紀元前43年アウルス・ヒルティウスと執政官になる。そしてガリア・キサルピナデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスを包囲しているマルクス・アントニウスの征伐に出撃。この戦いには同僚ヒルティウスのほかに、当時アントニウスと敵対していたオクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)も軍団を率い参戦した。パンサ、ヒルティウス、オクタウィアヌスの元老院軍とアントニウス軍は紀元前43年 4月14日フォルム・ガッロルムの戦いで激突する。その後ムティナの戦いで決着。友軍は勝利であったがヒルティウスは戦死、パンサも戦闘中の負傷が原因で数日後に没した。

2人の正規執政官が戦死したことで、残った元老院側の軍勢はオクタウィアヌスが掌握することとなった。その後戦いに生き残ったアントニウスが逃亡先のガリアマルクス・アエミリウス・レピドゥスと合同し、追撃するデキムス・ブルトゥスを破ると、オクタウィアヌスはアントニウス、レピドゥスと和解し第二回三頭政治を結成、元老院に敵対した。パンサの死によって共和派はカエサル派に対抗できる軍事力を事実上失ったとみることができる。

関連項目

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公職
先代
ガイウス・ユリウス・カエサル V(暗殺)
マルクス・アントニウス I
補充:プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ
執政官(戦死)
同僚:アウルス・ヒルティウス(戦死)
補充:アウグストゥス I(途中辞任)
クィントゥス・ペディウス(死亡)
プブリウス・ウェンティディウス・バッスス
ガイウス・カッリナス
次代
マルクス・アエミリウス・レピドゥス II
ルキウス・ムナティウス・プランクス

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