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オットー・ハーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 この項目では、化学者・物理学者について説明しています。原子力鉱物運搬船については「オットー・ハーン (原子力船)」をご覧ください。
Otto Hahn
オットー・ハーン
オットー・ハーン(撮影年不詳)
生誕 (1879年03月08日) 1879年 3月8日
ドイツの旗 ドイツ帝国フランクフルト・アム・マイン
死没 1968年 7月28日 (1968年07月28日)(89歳没)
西ドイツの旗 西ドイツゲッティンゲン
国籍 ドイツの旗 ドイツ
研究機関 ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
マギル大学
フンボルト大学ベルリン
マックス・プランク研究所
出身校 フィリップ大学マールブルク
指導教員 ウィリアム・ラムゼー
アドルフ・フォン・バイヤー
アーネスト・ラザフォード
エミール・フィッシャー
博士課程
指導学生
フリッツ・シュトラスマン
主な受賞歴 ノーベル化学賞(1944)
署名
プロジェクト:人物伝
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ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1944年
受賞部門:ノーベル化学賞
受賞理由:原子核分裂の発見

オットー・ハーン(Otto Hahn, 1879年 3月8日 - 1968年 7月28日)は、ドイツ化学者物理学者。主に放射線の研究を行い、原子核分裂を発見。1944年ノーベル化学賞を受賞[1]

1946年までカイザー・ヴィルヘルム協会最後の会長を務め、1948年から1960年までマックス・プランク協会会長を務めた。

略歴

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受賞歴

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マイトナーとの関係

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核分裂の発見」も参照

ハーンは30年以上にわたってリーゼ・マイトナーと一緒に研究を行ってきたが、ユダヤ系であったマイトナーはナチスの迫害を避けるために1938年スウェーデンに移らざるをえなくなった。その後も2人は連絡を取り合い、同年、ハーンはマイトナーに「ウラン原子核中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるラジウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」[2] という手紙を送った。マイトナーは、甥で物理学者であるオットー・ロベルト・フリッシュと共に核分裂が起きたことを証明して、連名で発表した。

しかし、ハーンはナチスの圧力に負けマイトナーを外したため、マイトナーはノーベル化学賞の受賞を逸している。ハーンは、受賞のスピーチでもマイトナーの功績についてほとんど触れず、その後も核分裂を発見したのはマイトナーではなく、自分だと主張し続けた。

マイトナーはハーンへの手紙で「40年間の友情を裏切られた思い」と吐露している。

今日では、ハーンは核分裂の発見者であり、マイトナーは核分裂の概念の確立者であるとされている。

ハーンとマイトナーの名前はいずれも元素名に提案されたが、マイトナーの名前に由来するマイトネリウムだけが採用された。ハーンの名前に由来するハーニウムは正式採用されず、ドブニウムが正式な名称となった。

脚注

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  1. ^ "日本大百科全書(ニッポニカ)の解説". コトバンク. 2018年1月7日閲覧。
  2. ^ 後にハーンは確認したのがラジウムではなくバリウムだったことを発見した。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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ウィキメディア・コモンズには、オットー・ハーン に関連するメディアがあります。

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