アーサー・オンズロー
The Right Honourable (英語版) アーサー・オンズロー | |
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庶民院議長 | |
任期 1728年1月23日 – 1761年3月 | |
君主 | ジョージ2世 ジョージ3世 |
前任者 | サー・スペンサー・コンプトン |
後任者 | サー・ジョン・カスト |
個人情報 | |
生誕 | 1691年 10月1日 イングランド王国 イングランド王国、ロンドン、チェルシー |
死没 | 1768年 2月17日 |
アーサー・オンズロー(英語: Arthur Onslow PC 、1691年 10月1日 - 1768年 2月17日)は、グレートブリテン王国の政治家。高潔で知られ、イギリスの庶民院議長の任期33年間は歴代最長である。
生涯
[編集 ]初期の経歴
[編集 ]1691年10月1日、フット・オンズロー(Foot Onslow、1710年没)とスザンナ・アンラビー(Susanna Anlaby)の長男としてチェルシーで生まれた[1] [2] 。ギルフォードのロイヤル・グラマー・スクール (英語版)[3] とウィンチェスター・カレッジで教育を受けた後、1708年にオックスフォード大学のウォダム・カレッジ (英語版)に入学したが[1] 、学位は取得しなかった[2] 。1713年にミドル・テンプルで弁護士資格免許を得た[2] 。
政界入り
[編集 ]1714年にジョージ1世が国王に即位すると、オンズローの伯父サー・リチャード・オンズローが財務大臣に任命され、アーサーはその秘書を務めた。1715年に伯父が離任すると、郵政収入役の職を得た。また1719年にはギルフォードの市裁判所判事 (英語版)になった[2] 。1720年2月の補欠選挙でギルフォード選挙区 (英語版)からホイッグ党の候補として当選すると[2] 、庶民院議員と郵政収入役を同時に務めることができなかったため、郵政収入役を弟のリチャード・オンズロー (英語版)に譲った[4] 。オンズローは1727年7月までギルフォード選挙区選出の庶民院議員を務めた[2] 。
ギルフォード選挙区の庶民院議員として
[編集 ]庶民院議長就任以前のオンズローによる演説は3回しか知られていない[2] 。1度目は1722年11月にカトリック教徒の財産から税金をとって10万ポンドを徴収する議案について、「宗教に関する意見をもとに迫害することへの憎悪を表明した」[2] 。2度目は1725年4月にボリングブルック子爵の公権喪失を取り消す議案に反対した[2] 。3度目は1726年3月にリチャード・ハンプデン (英語版)の請願を支持した[2] 。1722年にアタベリー陰謀事件が発覚したとき、首相ロバート・ウォルポールの邸宅に招かれ、人身保護法案について議論した[5] 。
1727年、ギルフォード選挙区とサリー選挙区 (英語版)の両方で大勝したが、オンズローはサリー選挙区の代表となることを選び[2] 、ギルフォード選挙区では補欠選挙が行われ弟のリチャードが当選した。以降オンズローは1761年3月に庶民院から引退するまでサリー選挙区を代表した[2] 。
庶民院議長として
[編集 ]1728年1月23日に庶民院が開会すると、オンズローは全会一致で庶民院議長に選出され[2] 、16世紀のリチャード・オンズロー (英語版)と伯父サー・リチャード・オンズロー準男爵についでオンズロー家3人目の庶民院議員となった。以降1735年、1741年、1747年、1754年でも再選され[2] 、同職の最長在任期間(33年)を打ち立てた。1728年6月25日、ハンプトン・コート宮殿で宣誓して枢密顧問官に就任[5] 、同年にインナー・テンプルの評議員 (英語版)に就任した[2] 。1729年5月13日、キャロライン王妃のChancellorに任命された[2] 。また1731年にオンズローの長男ジョージが生まれたとき、キャロライン王妃はその名付け親になった[2] 。
オンズローが選出された裏にはウォルポールがサー・スペンサー・コンプトンを追い落とそうとしたことと、オンズローを支持することで内閣の味方が増えるとの思惑があったが、オンズローが与党寄りにならず与野党を公正に扱ったためウォルポールの思惑が外れた[5] 。1731年にはウォルポールがオンズローを嫌っていることが知れ渡り、その結果オンズローは宮廷でも嫌われた[5] 。
1731年10月にコットン文書集 (英語版)を保存していた屋敷で火事が起こると、オンズローは本を窓から中庭に投げて多くの書物や写本を救い、また後に文書集の修復と保存を監督した[6] 。1734年4月20日、海軍主計長官 (英語版)に任命されたが、1742年に野党からオンズローが王室を支持したのは利益によるものと批判されたため辞任した[2] 。1737年にはキングストン・アポン・テムズの執事長 (英語版)に就任した。1753年、議会にハンス・スローンのコレクションとハーレーアン文書集 (英語版)を購入するよう説得した。これらのコレクションはコットン文書集 (英語版)の所蔵品と合わせて大英博物館の元になった[7] 。
議会活動については1740年4月29日と1745年5月2日に金銭法案 (英語版)に関する演説をし、1751年5月に摂政法案に反対する演説をしたことが記録されている[2] 。また、委員会では演説と投票が許されたため、オンズローは1732年に陸軍予算法案に反対票を投じ、1733年に物品税法案に賛成票を投じ、1739年にはスペインとの協定 (英語版)をめぐってウォルポールを支持した[5] 。
1761年、健康の悪化により議会から引退すると、庶民院は1761年3月18日に全会一致でオンズローへの感謝決議を可決、国王ジョージ3世も4月20日の特許状でオンズローと長男ジョージの存命中に3,000ポンドの年金を与え、翌年には庶民院もそれを可決した[2] 。1761年5月5日にはオンズローにロンドンの名誉市民権 (英語版)を与えることが可決され、オンズローは6月11日に正式に名誉市民権を得たが、同時に与えられた100ギニーの価値がある金の箱については辞退した[2] 。同1761年6月に大英博物館の受託者 (英語版)に選出された。1768年2月17日、67歳で死去した[2] 。
死後、テムズ・ディットン (英語版)に埋葬されたが、後に妻とともにサリーのメロー教会(Merrow Church)に改葬された[2] 。
家族
[編集 ]1720年10月8日、オンズローはテムズ・ディットン (英語版)のジョン・ブリッジスの娘でヘンリー・ブリッジス・オブ・インバー・コート(Henry Bridges of Imber Court)の姪と相続人であるアン・ブリッジス(1703年 - 1763年)と結婚した[2] 。2人は1男1女をもうけた[2] 。
- ジョージ・オンズロー(1731年 - 1814年) - 初代オンズロー伯爵
- アン・オンズロー(1751年12月20日没) - 生涯未婚
親族
[編集 ]弟リチャード・オンズロー (英語版)の長男ジョージ・オンズロー (英語版)(1731年 - 1792年)は1759年にイギリス陸軍の中佐になり、1760年3月から1784年3月までギルフォード選挙区 (英語版)選出の庶民院議員を務めた[8] 。また、リチャード・オンズローの次男は同名のリチャード・オンズロー (英語版)(1741年 - 1817年)で、彼は海軍に入隊して1797年のキャンパーダウンの海戦で活躍、1799年に提督に昇進した[9] 。
オンズロー家の末裔には20世紀末に庶民院議員を務めたクランリー・オンズロー (英語版)(1926年 - 2001年)がいる[10] 。
評価
[編集 ]ブリタニカ百科事典第11版はオンズローが庶民院議長を務めたとき、「機転と断固とした態度を示した」と評価し[1] 、英国人名事典も「清廉潔白」と評価した[2] 。
本のコレクターだったという[1] 。
脚注
[編集 ]- ^ a b c d Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Onslow, Arthur" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 20 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 113.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z Barker, George Fisher Russell (1895). "Onslow, Arthur" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 42. London: Smith, Elder & Co. pp. 216–218.
- ^ "Distinguished Old Guildfordians – Arthur Onslow" (英語). Royal Grammar School Guildford Website. 29 November 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。7 February 2010閲覧。
- ^ Sedgwick, Romney (1970). The House of Commons 1715–1754 v. 2. New York: Oxford University Press. pp. 308–309
- ^ a b c d e Sedgwick, Romney R.. "ONSLOW, Arthur (1691-1768), of Imber Court, Surr." (英語). The History of Parliament. 2019年2月16日閲覧。
- ^ Miller, Edward. That Noble Cabinet: A History of the British Museum, p. 35.
- ^ Wilson, David (英語). The British Museum, A History. p. 21
- ^ Barker, George Fisher Russell (1895). "Onslow, George (1731-1792)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 42. London: Smith, Elder & Co. pp. 218–219.
- ^ Laughton, John Knox (1895). "Onslow, Richard (1741-1817)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 42. London: Smith, Elder & Co. p. 225.
- ^ Roth, Andrew (2001年3月19日). "Lord Onslow of Woking" (英語). The Guardian . https://www.theguardian.com/news/2001/mar/19/guardianobituaries.obituaries
参考文献
[編集 ]- Burchett, Philip J (1984). A Historical Sketch of THAMES DITTON. Surrey: Thames Ditton and Weston Green Residents' Association. ISBN 0-904811-20-4
- Laundy, Philip (2004). "Onslow, Arthur (1691–1768)". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford University Press. http://www.oxforddnb.com/view/article/20788
公職 | ||
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先代 サー・スペンサー・コンプトン |
庶民院議長 1728年 - 1761年 |
次代 サー・ジョン・カスト |
先代 トリントン子爵 |
海軍主計長官 (英語版) 1734年 - 1742年 |
次代 トマス・クラッターバック (英語版) |
グレートブリテン議会 (英語版) | ||
先代 モルガン・ランダイル (英語版) ロバート・ロース (英語版) |
庶民院議員(ギルフォード選挙区 (英語版)選出) 1720年 – 1728年 同職:モルガン・ランダイル (英語版) 1720年 – 1722年 トマス・ブロドリック (英語版) 1722年 – 1727年 リチャード・オンズロー (英語版) 1727年 – 1728年 |
次代 リチャード・オンズロー (英語版) ヘンリー・ヴィンセント |
先代 ジョン・ウォルター トマス・スカーウェン (英語版) |
庶民院議員(サリー選挙区 (英語版)選出) 1727年 – 1761年 同職:トマス・スカーウェン (英語版) 1727年 – 1741年 ボルティモア男爵 (英語版) 1741年 – 1751年 トマス・バッジェン 1751年 – 1761年 |
次代 ジョージ・オンズロー サー・フランシス・ヴィンセント準男爵 (英語版) |