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アレクサンドラ・ニコラエヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクサンドラ・ニコラエヴナ
Александра Николаевна
皇女アレクサンドラ、エルミタージュ美術館

出生 1825年 6月24日
死去 (1844年08月10日) 1844年 8月10日(19歳没)
配偶者 ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル
子女 ヴィルヘルム
父親 ニコライ1世
母親 アレクサンドラ・フョードロヴナ
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アレクサンドラ・ニコラエヴナ (ロシア語: Александра Николаевна, ラテン文字転写: Alexandra Nikolaevna, 1825年 6月24日 - 1844年 8月10日)は、ロシア大公女ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル(フリードリヒ2世の曾孫。デンマーク王妃ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセルの弟)の最初の妃。

生涯

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ロシア皇帝ニコライ1世と皇后アレクサンドラの三女(第4子)として、サンクトペテルブルクで生まれた。家族からはアディニ(Adini)と呼ばれ、父に一番可愛がられた(他の兄弟はドイツ人の母親似で、彼女は父親似と言われていた)。姉のオリガによれば、利発で可愛らしい少女で、宮廷でも目立っていたという。

オリガの花婿候補としてサンクトペテルブルクを訪れたフリードリヒと出会い、1844年1月28日、結婚。しかし結婚後すぐに肺病にかかり、妊娠もしていたため、サンクトペテルブルクからヘッセンへ行くことができなくなった。アレクサンドラは、同年8月にヴィルヘルムと名付けられた男児(夭折)を生むが、回復することなく没した。両親は、亡くなるまでアレクサンドラの若死を憂い続けた。アレクサンドラは赤子を抱いたまま一つの棺に納められ、埋葬された。

フリードリヒ・ヴィルヘルムは、10年後に2度目の妃マリア・アンナ・フォン・プロイセン(皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの姪)と再婚。6子をもうけ、本流の絶えたヘッセン=カッセル家家長となった。

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1キリル・ウラジーミロヴィチによって認定された。
2ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフによって認定された。

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