本多忠良
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本多忠良自画像 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元禄3年(1690年) |
死没 | 宝暦元年6月1日(1751年 6月23日) |
改名 | 忠隆(初名)、忠良 |
別名 | 権次郎、監物(通称) |
戒名 | 自学院殿満誉了海全性大居士 |
官位 | 従四位下 侍従、中務大輔 |
幕府 | 江戸幕府 側用人、老中 |
主君 | 徳川家宣→家継→吉宗→家重 |
藩 | 越後 村上藩主→三河 刈谷藩主→下総 古河藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 |
父:本多忠英、母:錦織八郎太夫の娘 養父:本多忠孝 |
兄弟 | 忠良、忠方、忠辰、忠強、花房職勝正室 |
妻 | 正室:本多政利の娘・勝 |
子 | 忠敞 、忠亮、忠寛、水野忠辰正室ら |
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本多 忠良(ほんだ ただなが)は、江戸時代中期の大名。幕府では側用人、老中を務めた。越後国 村上藩の第2代藩主、三河国 刈谷藩主、下総国 古河藩の初代藩主。官位は従四位下・侍従、中務大輔。忠勝系本多家宗家8代。
生涯
[編集 ]本多平八郎家の分家筋にあたる播磨国 山崎藩主・本多忠英の長男として誕生。宝永6年(1709年)、15万石の本家当主・本多忠孝が12歳で無嗣のまま死去し、本来であれば断絶となるところを、とくに幕命により、分家筋の忠良に継がせることとなった[1] 。ただし、藩主死去後の急養子の形であるため、忠良相続後まもなく、10万石減封の上で越後村上から三河刈谷に転封となっている[1] 。
幕府では宝永7年(1710年)に6代将軍・徳川家宣より側用人に抜擢され、翌年には侍従に上げられて席次は老中に次ぐと定められた。正徳2年(1712年)に同じ5万石で三河刈谷から下総古河に移封となる[1] 。7代将軍・家継が死去し、享保元年(1716年)に紀州藩から徳川吉宗が8代将軍に就任すると側用人を解職されて帝鑑間席に戻ったが、忠良は平八郎家の嫡流であるとして、5万石ながら逆に10万石の格式を許された[1] 。
享保19年(1734年)には西の丸老中、翌年には本丸老中となり[1] 再び国政の表舞台に復帰した。延享3年(1746年)に老中職を退き、宝暦元年(1751年)に古河藩主在任のまま死去した[1] 。
年譜
[編集 ]- 1690年(元禄3年) 誕生
- 1709年(宝永6年) 本多平八郎家相続
- 1710年(宝永7年) 従四位下・中務大輔に叙任し、側用人にあげられる。三河刈谷に転封。
- 1711年(正徳元年) 侍従にあげ席次は老中に次ぐと定められる
- 1712年(正徳2年) 下総 古河藩に転封
- 1716年(享保元年) 側用人を免ぜられ、帝鑑間席に戻される
- 1734年(享保19年) 西丸老中
- 1735年(享保20年) 西丸から本丸老中に転ずる
- 1746年(延享3年) 老中を退く
- 1751年(宝暦元年) 6月1日卒。享年62。
系譜
[編集 ]父母
正室
- 勝 ー 本多政利の娘
子女
脚注
[編集 ]本多氏村上藩2代藩主 (1709年 - 1710年) | |
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村上家 | |
堀家 | |
本多家 | |
結城松平家 | |
榊原家 | |
本多家 | |
大河内松平家 | |
間部家 | |
内藤家 |
本多氏刈谷藩藩主 (1710年 - 1712年) | |
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水野家〔宗家〕 | |
水野家 | |
深溝松平家 | |
久松松平家 |
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稲垣家 | |
阿部家 | |
本多家 | |
三浦家 | |
土井家 |
本多氏古河藩初代藩主 (1712年 - 1751年) | |
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小笠原家 | |
戸田松平家 | |
小笠原家 | |
奥平家 | |
永井家 | |
土井家 | |
堀田家 | |
藤井松平家 | |
大河内松平家 | |
本多家 | |
松井松平家 | |
土井家 |
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