周布長次
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 天正元年(1573年) |
死没 | 慶安2年8月9日(1649年 9月15日) |
改名 | 周布鍋寿丸(幼名)→周布長次→杉岡長次 |
別名 | 通称:吉蔵→吉兵衛尉 |
戒名 | 是閑 |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 藤原北家御神本流益田氏 庶流 周布氏 |
父母 | 父:周布元兼 |
兄弟 | 元盛、女(桂元忠室)、長次、兼次 |
妻 | 益田藤兼の娘(初めは兄・元盛の正室) |
子 |
杉岡元真 、女(児玉市右衛門室)、 女(仁保元智室)、杉岡正俊、就近、 正重、女(河野元和室)、就房、 女(河内就信室) |
テンプレートを表示 |
周布 長次(すふ ながつぐ)/杉岡 長次(すぎおか ながつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。毛利氏家臣で長州藩士。石見国 那賀郡周布郷[1] を本拠とする国人・周布氏の第16代当主。父は周布元兼。兄に周布元盛。
生涯
[編集 ]天正6年(1578年)の播磨国 上月城攻めで吉川元春の軍に属して戦った父・元兼が、同年6月9日に戦死したため、兄の元盛が家督を相続した。しかし、天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役で吉川広家に従って朝鮮に渡った元盛は、文禄2年(1593年)6月21日から6月29日にかけて行われた第二次晋州城攻防戦に参加し勇戦したが、晋州城を落城させた6月29日に戦死した。元盛には男子がおらず、元盛の幼き娘が成人したら婚姻させて跡職を命じ、それまでは弟の長次が後を継ぐこととなった。
文禄3年(1594年)8月1日、輝元から「吉兵衛尉」の官途名を与えられる。慶長元年(1596年)には苗字を変えたいと申し出て、同年1月6日に輝元からも認められて苗字を「杉岡」と改めた。
慶長2年(1597年)から始まる慶長の役に従軍して朝鮮に渡り、同年12月22日から慶長3年(1598年)1月4日にかけて行われた第一次蔚山城の戦いにおいて武功を挙げた。これにより、第一次蔚山城の戦いで功のあった毛利氏家臣を賞した、慶長3年(1598年)1月25日付の豊臣秀吉の朱印状に長次の名(周布吉兵衛)も記されている[2] 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に毛利氏が長門・周防2ヶ国に減封されると、周布氏も石見 鳶巣城を去って萩へと移り住んだ。長州藩士として周布氏の家格は大組で1500石余を与えられた[3] 。
長州藩士となってからは萩城や大坂城の普請に携わり、元和6年(1620年)5月10日には嫡男の元真に知行を譲ることを輝元と秀就に認められる。
脚注
[編集 ]- ^ 現在の島根県 浜田市周布町。
- ^ 『毛利家文書』第914号、慶長3年(1598年)比定1月25日付 豊臣秀吉朱印状。この朱印状において名前を記されていたのは記載順に、宍戸元続、浅口少輔九郎、吉見広長、三沢為虎、三吉元高、天野元信、日野元重、内藤元盛、三田元盛、和智元盛、平賀元相、三尾元尚、三刀屋孝和、口羽元良、成羽親成、桂元武、野山清衛門尉、石蟹市郎、伊達三左衛門尉、赤木元重、周布長次、市川元好、吉田元重、馬屋原弥衛門、楢崎政友、福頼元秀、有地元盛。
- ^ 幕末の長州藩士・周布政之助は、長次の五男・就房の子孫にあたる。