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ルイ3世 (プロヴァンス王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避 西フランク王の「ルイ3世」あるいは東フランク王(若年王)の「ルートヴィヒ3世」とは別人です。
ルイ3世
ルートヴィヒ3世
Louis III/Ludwig III
プロヴァンス国王
イタリア王
ローマ皇帝
在位 887年 - 928年(プロヴァンス王)
900年 - 905年(イタリア対立王)
901年 - 905年(ローマ皇帝)

出生 880年
死去 928年 6月5日
配偶者 アンナ
  アーデルハイト・フォン・ブルグント
子女 シャルル・コンスタンティン
家名 ボゾン家
父親 プロヴァンス王ボソ
母親 エルマンガルド
宗教 キリスト教 カトリック教会
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ルイ3世(: Louis III, ドイツ語:Ludwig III.、880年頃 - 928年 6月5日)は、ボゾン家プロヴァンス国王(在位:887年 - 928年)。カール3世皇帝(肥満王)の養子として幼少でプロヴァンス王位を得た。長じて勢力を拡大してイタリア王を兼ね(在位:900年 - 905年)、養父と同じローマ皇帝に登り詰めた(在位:901年 - 905年)。しかし栄光は長く続かず対立イタリア王ベレンガーリオ1世に敗北してイタリアから追い出され失明させられたことから盲目王(l'Aveugle)と呼ばれる。ローマ皇帝としてルートヴィヒ3世(ドイツ語: Ludwig III)。

生涯

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プロヴァンス王ボソとローマ皇帝兼イタリア王ロドヴィコ2世の娘エルマンガルドとの間の長男で、父ボソが887年に死去した後、母エルマンガルドは皇帝カール3世に庇護を頼み、カール3世の後見のもとルイはプロヴァンス王位を継承した。ロドヴィコ2世の孫にあたることからイタリア王位を要求、900年にイタリア王ベレンガーリオ1世の対立王となる。さらに皇帝アルヌルフのあと皇帝位をも要求し、901年に教皇ベネディクトゥス4世によりローマで皇帝として戴冠されたが、905年にベレンガーリオ1世に捕えられ、眼球を摘出され失明させられた[1] 。ルイはプロヴァンスに戻りプロヴァンス王を名乗り続けたが、実権は又従兄で義兄のアルル伯ユーグ(後のイタリア王ウーゴ)が握った。

子女

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900年頃、東ローマ皇帝 レオーン6世の娘とされるアンナ(887年頃 - 914年)と結婚。アンナの死後、ブルグント王ルドルフ1世の娘アーデルハイトと結婚した。息子が1人いる。

  • シャルル・コンスタンティン(? - 962年) - ヴィエンヌ伯

ベレンガーリオ1世の2度目の妃アンナは、ルイ3世とアンナとの間の娘ともいわれている。

脚注

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  1. ^ 瀬原(2012), p. 58.

参考文献

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関連文献

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関連項目

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中フランク王家

シャルル855-863 / ルイ863-870

西フランク王家

シャルル2世870-877 / ルイ2世877-879

ボゾン家

ボソ879-882

西フランク王家
東フランク王家
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933年、ブルグント王国に併合
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ザクセン朝
以後、神聖ローマ皇帝参照
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