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キャドザントの戦い

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キャドザントの戦い

キャドザントの戦い
フロワサールの年代記の挿絵(15世紀)
戦争:百年戦争
年月日:1337年11月
場所:キャドザント (英語版)(フランドル)
結果:イングランド軍の勝利
交戦勢力
イングランドの旗 イングランド王国 フランドル伯
指導者・指揮官
イングランドの旗 ウォルター・マーニー (英語版) ギー
戦力
3,500 数千
損害
軽微 ほぼ全滅
百年戦争
百年戦争(1337年 - 1360年)
キャドザント - アルネマイデン - イギリス海峡 (英語版) - カンブレー (英語版) - スロイス - サン・トメール - トゥルネー (英語版) - ベルジュラック (英語版) - オーブロッシェ - エギュイヨン (英語版) - カーン - ブランシュタック - クレシー - カレーI - ネヴィルズ・クロス - ルナローニュ (英語版) - カレーII (英語版) - ウィンチェルシー - サン=ジャン=ダンジェリ (英語版) - サント (英語版) - アルドル (英語版) - ブールジュI (フランス語版) - ポワティエ - ジャックリー - ランス (英語版) - パリI (フランス語版) - シャルトル (英語版)

ブルターニュ継承戦争 (1341年 - 1364年)
シャントソー - カンペルレ (フランス語版) - エンヌボン (英語版) - ブレスト (英語版) - モルレー (英語版) - ヴァンヌ (英語版) - カドレ (英語版) - サン=ポル=ド=レオン (英語版) - ラ・ロッシュ=デリアン - 30人の戦い - モーロン - モンムラン (英語版) - レンヌ (英語版) - オーレ


百年戦争(1369年 - 1389年)
コシュレル - ナヘラ - モンティエル - リモージュ (英語版) - パリII (フランス語版) - ポンヴァラン - ガーンジー (フランス語版) - ラ・ロシェルI - スービーズ (フランス語版) - シーゼ (英語版) - バイヨンヌ (フランス語版) - サン・マロ (フランス語版) - ナント (フランス語版) - ローゼベーケ


百年戦争(1407年 - 1453年)
ルテル (フランス語版) - ブールジュII (フランス語版) - ドルー (フランス語版) - アルフラール (英語版) - アジャンクール - ヴァルモン (英語版) - カーンI (英語版) - ルーアンI (英語版) - ラ・ロシェルII (英語版) - ムラン (フランス語版) - パリIII (フランス語版) - ボージェ - モー - ベルネー (フランス語版) - クラヴァン - ヴェルヌイユ - サン=ジャム (英語版) - モンタルジ (英語版) - ラヴァルI (フランス語版) - オルレアン - ニシンの戦い - ジャルジョー - モン=シュル=ロワール - ボージャンシー - パテー - トロワ (フランス語版) - パリIV - ラヴァルII (フランス語版) - ラ・シャリテ (英語版) - コンピエーニュ - ラニー (フランス語版) - ジェルブロワ (英語版) - パリV - カレーIII (英語版) - ポントワーズ (英語版) - タルタス (英語版) - ディエップ (英語版) - フージェール (フランス語版) - ルーアンII (フランス語版) - フォルミニー - カーンII (英語版) - ファレーズ (英語版) - シェルブール (英語版) - ボルドーI (フランス語版) - マルティニャ (フランス語版) - カスティヨン - ボルドーII

キャドザントの戦い(キャドザントのたたかい、英語: Battle of Cadsand)は、 1337年11月にフランドル地方のキャドザント (英語版)島(現オランダ)で起こった、イングランド王国軍とフランドル伯軍の戦いである。小規模な武力衝突ではあったが、同年に始まった英仏間の百年戦争の最初期の戦いとされ、イングランド軍が勝利を収めた。

背景

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フランス南西部のギュイエンヌの宗主権を巡り対立を深めていたプランタジネット朝 イングランド王国ヴァロワ朝 フランス王国だったが、14世紀に入りフランス王位継承問題やフランドル問題、スコットランド問題などで亀裂は一気に深刻化していた。イングランド王エドワード3世は、フランスに亡命したスコットランド王デイヴィッド2世の引き渡しをフィリップ6世に求めたが拒否されて態度を硬化。一方のフィリップ6世は、対決姿勢を崩さないイングランド側に対して1337年5月、プランタジネット家のギュイエンヌ領の没収を宣言した。エドワード3世は同年11月1日、ヴァロワ朝に対して挑戦状を送りつけ、百年戦争が始まった。

開戦当初、イングランド艦隊は大軍を運ぶ準備ができておらず、エドワード3世は手っ取り早くかつ確実な戦果を挙げるため、すでにフランドル地方のエノー伯領に駐屯していた先遣隊を指揮するウォルター・マーニーに、小艦隊を率いてフランス支配下のキャドザント島を襲うように命じた。キャドザントは沼が多く、小さな漁村があるだけの貧しい島だったが、目の前にある富裕なスロイスの町の守備隊をおびき出すには好餌であった。[1]

戦闘

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11月9日、スロイスを攻撃しようとして失敗したマーニーは、兵士と水夫からなる3,700人の部隊をキャドザントに上陸させた。イングランド軍はここで数日間にわたり村々を襲って略奪や乱暴狼藉の限りを尽くし、火を放った。スロイスの守備隊長はフランドル伯ルイ1世 (英語版)庶子ギーだったが、目前で繰り広げられる蛮行に我慢ができず、兵を率いてスロイスからキャドザントに渡った。しかし、敵軍の上陸を待ち構えていたイングランド軍は有利な地形でこれを迎え撃ち、フランドル軍は粉砕されてギーは捕虜となった。スロイスに逃げ帰った兵はほとんどいなかったという。イングランド軍の損害は軽微だった。キャドザントはフランドル軍をおびき寄せる役割しかなかったため、マーニーも数日後に島を放棄した。

戦後

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この作戦は示威行動以外の意味はほとんど無かったが、英仏国境近くのフランドルの諸都市には動揺が広がり、またフィリップ6世にもある程度の衝撃を与えた。敗戦の原因をフランドルに潜む裏切り者のせいだと考えた王は諸都市への弾圧を強め、結果として多くのフランドル都市がフランスから離れていった。フランドル諸都市がフランスに対して反乱を起こしイングランドと同盟を結ぶと、エドワード3世はキャドザント襲撃を謝罪して賠償した。スロイスでは翌1340年スロイスの海戦が起き、フランス艦隊が壊滅した。

脚注

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  1. ^ キャドザント島はその後、四囲の海峡が沈泥で埋まったため、オランダのゼーラント州の本土の一部となった。元々島があった場所にある村の名前に、わずかにその名前が残っている。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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