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馬丁安

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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馬丁安(ま ちょうあん[1] 、生没年不詳[1] )は、百済五経博士。『日本書紀』によると、百済から日本に派遣されていたが、欽明天皇十五年(554年)に日本から帰国。百済での官位は固徳 [1] 中国系姓名であるため、百済帰化していた中国人とみられるが[2] 末松保和などの研究によると、中国 南朝の文化人である[3] [4] [5]

概要

日本書紀』は、513年に百済は五経博士 段楊爾を貢したが、3年後に段楊爾を帰国させ、かわって漢高安茂を貢し、554年固徳馬丁安にかえ、易博士 王道良五経博士 王柳貴易博士 王保孫医博士 王有㥄陀採薬師 潘量豊固徳 丁有陀倭国に貢した(貢した=「貢ぎ物を差し上げる」)と記録している[6] [7]

前川明久は、馬丁安の貢上は「512年から513年任那割譲によって領土を拡大した百済が大和朝廷に与えた代償」と指摘している[7]

一方、『日本書紀』に読まれる歴史構成を批判的に検討する文献学的な批判があり、継体 欽明朝に五経博士が百済から交代派遣されたとする伝説 伝承は、事実とは認め難いとする指摘もある[8] [9] [10] [11]

脚注

  1. ^ a b c 日本人名大辞典+Plus馬丁安』 - コトバンク
  2. ^ 전덕재 (2017年7月). "한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할" (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學校 東洋學硏究院): p. 110. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220423195439/https://cms.dankook.ac.kr/web/-oriental/-23?p_p_id=Bbs_WAR_bbsportlet&p_p_lifecycle=2&p_p_state=normal&p_p_mode=view&p_p_cacheability=cacheLevelPage&p_p_col_id=column-2&p_p_col_count=1&_Bbs_WAR_bbsportlet_extFileId=99960  
  3. ^ 請田正幸『渡来人論・序章』青木書店歴史学研究582〉、1988年7月、14頁。 
  4. ^ 吉村武彦舘野和己林部均『平城京誕生』角川学芸出版角川選書〉、2010年11月25日、6頁。ISBN 4047034835 
  5. ^ 末松保和『任那興亡史』吉川弘文館、1965年。 
  6. ^ 服部敏良日本医学史研究余話科学書院、1981年10月1日、22頁。ISBN 4760301003 https://books.google.co.jp/books?id=nIYL5t84rJ4C&pg=PA22=onepage&q&f=false#v=onepage&q&f=false  
  7. ^ a b 日本大百科全書五経博士』 - コトバンク
  8. ^ 田中健夫石井正敏 編『対外関係史辞典』吉川弘文館、2009年1月1日、356頁。ISBN 978-4642014496 
  9. ^ 斎藤正二『日本的自然観の研究 変容と終焉』八坂書房斎藤正二著作選集4〉、2006年7月1日、129頁。ISBN 978-4896947847 
  10. ^ 菅原信海『日本思想と神仏習合』春秋社、1996年1月1日、24頁。ISBN 978-4393191057 
  11. ^ 浜田耕策 (2005年6月). "4世紀の日韓関係" (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 6. オリジナルの2015年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151018092951/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-01-hamada_j.pdf  

関連項目

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