木下俊愿
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木下俊愿 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保8年4月27日(1837年 5月31日) |
死没 | 明治13年(1880年)4月15日 |
墓所 | 東京都 港区 青山霊園1-イ-2-25 |
官位 | 従五位下・大和守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川慶喜、明治天皇 |
藩 | 豊後 日出藩主 |
氏族 | 木下氏 |
父母 | 木下俊敦、木下俊程 |
兄弟 |
俊方、毛利元純、俊程、俊愿、 柳生俊順正室、峯子、伊東祐帰正室ら |
妻 | 伏原宣諭娘 |
子 |
俊忠、俊哲、俊義、俊信、恒子、 堀直紹正室 |
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木下 俊愿(きのした としまさ)は、豊後国 日出藩第16代(最後)の藩主。位階は正五位。官位は従五位下、大和守。
経歴
13代木下俊敦の七男として生まれる。慶応3年(1867年)5月29日、兄の先代俊程の隠居により家督を継いだ。幕末の動乱の中で、藩内では佐幕派と尊皇派に分裂して対立が起こったが、俊愿は藩論を尊皇派にまとめ、戊辰戦争では新政府に与することにした。慶応4年(1868年)1月13日に上洛、16日に参内し、新政府支持の姿勢を示した。明治元年(1868年)9月2日、足守藩主木下利恭とともに新政府に対し、豊国神社造営を申し付けを願う。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還で知藩事となる。その後、藩の行政改革を行なったが、重税を強いたために領民による一揆が起こった。明治4年(1871年)、廃藩置県により日出藩は廃藩となった。
明治13年(1880年)4月15日死去。享年44。墓所は東京都 港区の青山霊園1-イ-2-25で、神式で葬られた。
木下家は1884年の華族令により、嗣子の俊哲に子爵が授けられ、華族となった。
系譜
父母
正室
子女